本書の底本は「山県大弐著 柳子新論 川浦玄智訳注 岩波文庫」二〇〇七年二月二一日 第四刷発行である。底本の中から、蒲生重章撰の「山縣大貳傳」を現代人にも読めるように現代語訳し、川浦玄智が書き下した「柳子新論 正名 第一 から 富強 第十三」までを現代語に意訳(著者の主観を交えた現代語訳)した。
なお、現代語に意訳するにあたって、飯塚重威著「山縣大貳傳 柳子新論十三篇新釋」(東京三井出版商會刊)を参考にした。
山(やま)縣(がた)大(たい)貳(に)傳(でん) 蒲(かも)生(う)重(しげ)章(あき)(幕末明治時代の漢学者)撰(せん)
山(やま)縣(がた)大(だい)貳(に)名昌(まさ)貞(さだ)、字(あざな)は某、柳(りゅう)荘(そう)と號し、大貳はその通称、幼字は三(さん)之(の)助(すけ)。享保(きょうほう)十年某(ぼう)月(げつ)日(ぴ)を以(もつ)て、甲(か)斐(いの)国(くに)巨(こ)摩(ま)郡(ぐん)篠(しの)田(だ)村(むら)に生(うまれ)る。實(じつ)に山(やま)縣(がた)三(さぶ)郎(ろう)兵(べ)衛(ゑ)昌(まさ)景(かげ)十一世の孫たり。父は領蔵(りょうぞう)と稱(しよう)し、同(どう)邑(ゆう)の鄕(きよう)士(し)野澤氏の後たり。改めて三右衛門と稱し、また、甲府勤番の與(よ)力(りき)某(ぼう)、姓(せい)村瀬氏を冒(おか)す。大(たい)貳(に)も仍(すなわ)ち村瀬氏を冒(おか)し、後(のち)本(ほん)姓(せい)に復(ふく)す。
山(やま)縣(がた)大(だい)貳(に)の名前は「昌(まさ)貞(さだ)」、字(あざな)(ニックネーム)は「柳(りゅう)荘(そう)(江(え)宮(みや)隆(たか)之(ゆき)著 明治維新を創った男 山(やま)縣(がた)大(だい)貳(に)傳(でん) によると、江戸時代における甲斐国(かいのくに)の領主・柳(やなぎ)沢(さわ)吉(よし)保(やす)の子・柳(やなぎ)沢(さわ)吉(よし)里(さと)の家老・柳(やなぎ)沢(さわ)里(さと)恭(とも)のペンネーム柳(りゅう)里(り)恭(きょう)の柳を用いて柳(りゅう)荘(しょう)とした。)」である。大貳は通称(世間一般に通用している名前・大辞林)である。幼い頃の字(あざな)(ニックネーム)は三(さん)之(の)助(すけ)である。大貳は江戸時代享保(きょうほう)十年(西暦一七二五年・月日は不明・因(ちな)みに吉田松陰が生まれたのは一八三〇年)、甲(か)斐(いの)国(くに)巨(こ)摩(ま)郡(ぐん)篠(しの)田(だ)村(むら)(川浦玄智の注〔以下「注」と記す〕・篠原村の誤り・現山梨県甲斐市)に生まれた。何と山(やま)縣(がた)三(さぶ)郎(ろう)兵(べ)衛(ゑ)昌(まさ)景(かげ)(武田信玄公に仕えた武将)から十一代目(八代目との説もある・注)の末裔(まつえい)である山縣沢右衛門(やまがたさわえもん)の孫である。父親は領蔵(りょうぞう)(前掲書では、山(さん)三(さぶ)郎(ろう)・為(ため)信(のぶ)とある)と称し、山縣沢右衛門(やまがたさわえもん)の跡取り(入り婿・前掲書には同(どう)邑(ゆう)の鄕(きよう)士(し)野澤氏は出てこない)である。父親(領蔵(りょうぞう)あるいは山(さん)三(さぶ)郎(ろう)・為(ため)信(のぶ))はやがて甲府勤番の山手組与力・村瀬(むらせ)清(せい)左(ざ)衛門(えもん)から与力(よりき)株を購入して、村瀬と云う姓を名乗るようになった。そのため、大貳も一時は村瀬姓を名乗ったが、その後、色々な事情があって山縣姓に戻ることになる。
天(てん)資(し)頴(えい)敏(びん)にして豪(ごう)邁(まい)、同(どう)國(こく)山梨郡山王(さんのう)権現(ごんげん)の祠(し)祝(しゆく)、加(か)賀(が)美(み)櫻(おう)塢(う)に從(したが)ひて學(まな)ぶ。櫻(おう)塢(う)は業(ぎよう)を三(み)宅(やけ)尚(しょう)齋(さい)に受く。ここを以(もつ)て大(たい)貳(に)大(たい)義(ぎ)に明かなり。皇(こう)學(がく)儒(じゆ)佛(ふつ)陰(いん)陽(よう)方(ほう)技(ぎ)より、諸子(しょし)百家(ひゃっか)に至るまで、渉(しよう)獵(りよう)せざるなく、尤(もつと)も鈐(けん)韜(とう)に𨗉(ふか)し。常に慨(がい)然(ぜん)として、皇室を復興するの意(い)あり。柳(りゆう)子(こ)新(しん)論(ろん)十三篇(へん)を著(あらわ)し、正(せい)名(めい)篇(へん)を以(もつ)て首(はじめ)となし、以(もつ)て大義名分の棼(ふん)亂(らん)を諷(ほのめか)す。その餘(よ)皆(みな)時(じ)勢(せい)を譏(き)刺(し)し、議論剴(がい)切(せつ)、賈(か)長沙(ちょうさ)の風格あり。
大貳は生まれつき鋭(えい)敏(びん)な頭脳を有し、かつ豪(ごう)毅(き)な性質であった。やがて、山梨郡山王(さんのう)権現(ごんげん)(現甲府市上(かみ)曽(そ)根(ね)町(まち)の日枝(ひえ)大神社)の神主である加(か)賀(が)美(み)櫻(おう)塢(う)に師事する。櫻(おう)塢(う)は三(み)宅(やけ)尚(しょう)齋(さい)(前掲書によると、尚(しょう)齋(さい)の師は山(やま)崎(ざき)闇(あん)斎(さい)であり、闇斎は神(しん)道(とう)と朱(しゅ)子(し)学(がく)を結び付けた「垂(すい)加(か)神(しん)道(とう)」という学説を立て広めた)の弟子である。櫻(おう)塢(う)に啓発されて学問に目覚めた大貳は、日本書紀など皇室に関する学問、儒教、仏教、陰陽道(おんみょうどう)、占術、医術、錬金術から諸子(しょし)百家(ひゃっか)(古代中国・周(しゅう)王(おう)朝(ちょう)の春(しゅん)秋(じゅう)時代から戦国時代にかけての諸学派の総称)に至るまで多くの書物を読み漁(あさ)り、特に兵学を深く学んだ。毎日熱心に学んだ結果、皇室を中心とした国家体制を再構築することが、日本本来の政治の形であると云う結論に辿り着いたのである。そして、あるべき日本の姿を「柳(りゅう)子(し)新(しん)論(ろん)」に書いたのである。「柳子新論」は十三篇(ぺん)から成る。第一篇は「正(せい)名(めい)篇(へん)」である(正名とは、論語にある「政(まつりごと)を為(な)さば子(し)将(まさ)に奚(なに)をか先(さき)にせん。子(し)曰(のたま)わく、必ずや名を正(ただ)さんか」の「名を正す(君(くん)主(しゅ)は君主として、臣(しん)下(か)は臣下としての役割に徹する)」ことである)。「柳子新論」は、徳川の世が「名を正す」と云う大義名分を失って混乱していることを糾(きゅう)弾(だん)し、当時の政治を痛切に批判する見事な社会評論である。古代中国の賈(か)長沙(ちょうさ)(漢代の学者賈(か)誼(ぎ)のこと。文章は力強く政論に秀(ひい)でていた・注/「山県大弐著 柳子新論 川浦玄智訳注 岩波文庫」の百五十三頁以降に記載されている注/以下、単に「注」と表記する)のような風格がある。
宝(ほう)暦(れき)六年江戸に來(きた)り、四谷坂町に居る。十二年八(はつ)丁(ちよう)堀(ぼり)長澤町に徙(うつ)る。常に紫(し)綬(じゅ)を以て髪を結ぶ。幕(ばく)吏(り)咎(とが)めてこれを徹(てつ)せしむ。贄(し)を執(と)る者恆(つね)に數(すう)百人。諸(しよ)侯(こう)或(あるい)は重(じゆう)幣(へい)もてこれを徴(ちよう)し、或(あるい)は月(げつ)糧(りよう)を給(きゆう)す。
大貳は、宝(ほう)暦(れき)六年(西暦一七五六・大貳三二歳の時)江戸に上京してきて四谷の坂町に住居を構え、同十二年に八丁堀の長沢町に移転した。(前掲書によると、同九年・三十五歳の時に「柳子新論」を完成させ、同十年・三十六歳の時に仕えていた大岡家を辞して〔九代将軍徳川家(いえ)重(しげ)の側(そば)用(よう)人(にん)~将軍の側近中の側近~を務めていた大岡忠(ただ)光(みつ)が亡くなったため。大貳は忠光の側近として仕えていた。〕、八丁堀の長沢町に移り住み、「柳(りゅう)荘(そう)塾(じゅく)」を立ち上げ、諸学を教えるようになる)。大貳は、公(く)卿(ぎょう)の土(つち)御(み)門(かど)泰(やす)邦(くに)から陰陽師(おんみょうじ)関東三十三国惣(そう)司(じ)に任じられた時に頂いた(前掲書)「紫(し)綬(じゅ)(紫色のひも)」を大切にしており、常に「紫(し)綬(じゅ)」で髪を結(ゆ)っていた。ところが、宝のように大切にしていた「紫(し)綬(じゅ)」をやがて幕府の役人に咎められて髪を結えなくなってしまった。「柳(りゅう)荘(そう)塾(じゅく)」には、常に数百人の弟子が集まり、諸侯は高い謝金を支払って講師として招き、あるいは顧問講師として毎月定額の顧問料を払っていたようである。