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山縣大弐著 柳子新論 川浦玄智訳注 現代語訳 その二

小(お)幡(ばた)侯織田信邦(のぶくに)、賓(ひん)師(し)を以(もつ)てこれを待つ。その老(ろう)吉田玄(げん)蕃(ば)、津田頼(たの)母(も)、及び京都の人藤井右門、竹内(たけのうち)式部(しきぶ)の輩(やから)、常に相(あい)往(おう)來(らい)し、文を論じ武を論ず。遂(つい)に古(こ)今(こん)兵(へい)法(ほう)、攻(こう)城(じよう)野(や)戰(せん)の得(とく)失(しつ)利(り)害(がい)に至り、これを證(しよう)するに、江戸城を攻むるには、宜(よろ)しく南(なん)風(ぷう)に乘(じよう)じ、品(しな)港(こう)より火(ひ)箭(や)を放つべし等(とう)の語(ご)を以(もつ)てす。終(つい)に吏(り)議(ぎ)に罹(かか)り、論じて大(だい)憲(けん)を犯すとなし、中(あ)つるに大(たい)辟(へき)を以(もつ)てし、連座する者甚(はなは)だ衆(おお)し。實(じつ)に明和四年八月二十二日なり。享(きよう)歳(れい)四(し)十(じゆう)有(ゆう)三(さん)。

上州(群馬県)小(お)幡(ばた)藩の藩主・織田信邦(のぶくに)からは、客分としての待遇を受け、その家老吉田玄(げん)蕃(ば)・津田頼(たの)母(も)や藤井右(う)門(もん)(竹内式部の同志。宝暦事件で式部が捕らえられると、出奔(しゅっぽん)して江戸に来て、大貳の所に身を寄せた・注)、竹内(たけのうち)式部(しきぶ)(京都で公卿に神学を講義し、宝暦の厄(やく)を蒙(こうむ)り追放され伊勢に蟄居(ちっきょ)した・注)、などが「柳(りゅう)荘(そう)塾(じゅく)」に常に出入りし、文武の学問を講じていた。その講義で古今の兵法を教える中で江戸城を攻め落とす具体的な戦法(南風を利用して品川港から放火するなど)について話したことが、幕府の役人に伝わることになり、幕府転覆を謀(はか)る者として、大貳・斬首、右門・磔(はりつけ)の極刑と云う重い刑罰に処せられたのである。(幕府が一民間人を処刑したのは大貳・右門がはじめてで、思想弾圧の犠牲者第一号である。大貳は判決書によると叛逆(はんぎゃく)の意図や謀叛(むほん)の事実はなかったとされている。ただ「兵学の講釈をする際、甲府城その他見聞きした城を譬(たと)えに用いたのが不(ふ)敬(けい)の至(いたり)、不届き至(し)極(ごく)」であるので死罪に処せられている・注)明和四年(西暦一七六七年・大貳四十三歳)八月二十二日(前掲書の年譜では八月二十一日)のことである。

 著(あらわ)す所(ところ)數(すう)種(しゆ)あり、散(さん)佚(いつ)して傳(つた)わらず。今存(そん)する者、柳子新論の外(ほか)、醫(い)事(じ)撥(はつ)亂(らん)、素(そ)難(なん)評(ひよう)、孫(そん)子(し)講(こう)義(ぎ)、三種のみ。大(だい)貳(に)既(すで)に刑せられ家(いえ)絶(た)ゆ。二(に)子(し)あり、長を好(よし)春(はる)といひ、次(じ)郎(ろ)兵(べ)衞(え)と稱(しよう)し、母の姓斎藤氏を冒(おか)す。次は長順字(あざな)は子正といひ、岨(そ)雲(うん)と號(ごう)し、醫(い)を業(ぎよう)とす。故(ゆえ)ありて今村氏を冒(おか)す。その第三(さん)子(し)名は亮(りよう)、字は祇(し)卿(きよう)、了(りよう)庵(あん)と號(ごう)し、また醫(い)を以(もつ)て鳴る。旁(かたわ)ら文(ぶん)詩(し)を能(よ)くし、余(よ)と交(まじ)はり善(よ)し。その孫(まご)昌(しよう)臧(ぞう)、妙(みよう)齢(れい)雋(しゆん)才(さい)、また文(ぶん)詩(し)を能(よ)くす。頃(このご)ろ官(かん)に請(こ)ひ、本(ほん)姓(せい)に復(ふく)すといふ。善(ぜん)諷(ふう)子(し)いはく、今(きん)上(じよう)の山梨縣(けん)に巡(じゆん)幸(こう)したまふや、大貳の尊(そん)王(のう)の志を齎(もたら)して、而(しか)して非(ひ)命(めい)に死するを恤(あわれ)みたまひ、賜(たま)ふに祭(さい)祀(し)金(きん)を以てしたまふ。またその玄(げん)孫(そん)昌(しよう)臧(ぞう)、本(ほん)姓(せい)に復(ふく)して以(もつ)てその先を顕(あら)はす。嗚(あ)呼(あ)九(きゆう)原(げん)知(し)るあらば、また遺(い)憾(かん)なかるべし。

 大貳が書き残した著書は一定数あったようだが、ほとんど散逸してしまい、現存しているのは「柳子新論」以外に「医(い)事(じ)発(はつ)乱(らん)」、「素(そ)難(なん)評(ひょう)」、「孫(そん)子(し)講(こう)義(ぎ)」の三冊だけである。大貳には二人の子どもがいたが、処刑されたので家名は取り上げられてしまった。長男は好(よし)春(はる)と云い、字(あざな)(ニックネーム)は、次郎兵衛と称して、母親(前掲書・「先妻さだ」)の斎藤姓を継いだ。次男は長順(前掲書では長蔵・母親は後妻たか)と云い、字(あざな)(ニックネーム)は子正と称し、号(ペンネーム)は岨(そ)雲(うん)、医者を本業とした。理由があって(前掲書・再婚した母の)今村姓を名乗った。長順(長蔵)の第三子である亮(りよう)は字(あざな)(ニックネーム)を祗(し)卿(きよう)、号(ペンネーム)は了庵と称し、父親と同じく医者を本業とした。本業の合間に詩や文章を書き、わたし(蒲(かも)生(う)重(しげ)章(あき))と親しかった。亮(りよう)の孫を昌(しよう)蔵(ぞう)と云い、その昌(しよう)蔵(ぞう)も詩や文章を愛したが、役所に請求して「山縣」に復姓した。善(ぜん)諷(ふう)子(し)(善(ぜん)諷(ふう)先生・蒲(かも)生(う)重(しげ)章(あき)の雅(が)号(ごう)・本名以外に付ける風流な名前)は次のように云っておる。今(きん)上(じょう)陛下(明治天皇)が山梨県に巡幸(じゅんこう)された時に、大貳の尊(そん)王(のう)(尊(そん)皇(のう))の志を慎まれて、非命に死する(徳川幕府に斬首された)ことをお悲しみになって、祭(さい)祀(し)金(きん)を賜(たまわ)られた。山縣姓に復姓した昌(しよう)蔵(ぞう)は、祖先である山縣大貳を誇りに思って山縣大貳の子孫を名乗った。大貳はさぞかし草(くさ)葉(ば)の陰(かげ)で喜んでいるであろう。

 余(よ)嘗(かつ)て加(か)々(が)美(み)櫻(おう)塢(う)の傳(でん)を作り、始めて大貳の尊(そん)王(のう)を唱(とな)へて、奇(き)禍(か)に罹(かか)れるを知る。今またその著書を讀み、而(しか)してその學(がく)淵(えん)源(げん)あるを知れり。柳子新論一(いつ)書(しよ)の如(ごと)きは、我が家(いえ)君(くん)平(ぺい)の著書と並び行ふべきなり。ああ偉(い)なるかな。またいはく、大貳新論に跋(ばつ)していふ、園(えん)を鋤(すき)して菽(しゆく)麥(ばく)を種(う)ゑしに、偶(たまた)ま一(ひとつの)石(いし)函(はこ)を獲(え)たり。中に餞(せん)刀(とう)を臧(かく)す。皆元(げん)明(めい)以上に鑄(ちゆう)する所の者なり。函底(はこのそこ)に一(ひとつの)古(こ)書(しよ)あり。題して柳子新論といふ。腐(ふ)爛(らん)の餘(よ)、披(ひ)閲(えつ)するに便(びん)ならず云(うん)々(ぬん)と。豈(あ)にその時の不可なるを以(もつ)て、これを古(こ)昔(せき)に託(たく)せしか。然(しか)らずんば楮(こうぞ)紙(がみ)の書、久しく土中(つちのなか)にあり。いづくんぞ能(よ)く朽(きゆう)腐(ふ)せざらんや。甲人(かいのひと)及び祇(し)卿(きよう)、斷じて以(もつ)てその自(じ)著(ちよ)となす、宜(うべ)なり。

 わたしは嘗(かつ)て加(か)賀(が)美(み)櫻(おう)塢(う)(前掲書)の伝記を書いた時に、はじめて山縣大貳が尊(そん)王(のう)(皇)の思想を唱えて、幕府に処刑されたことを知った。今回、改めて「柳子新論」を読み、その思想と学問の奥深さを認識した。わが祖先である蒲(かも)生(う)君(くん)平(ぺい)(江戸末期の名高い尊皇家・注)が残した著作と肩を並べる内容である。何と偉大であろうか。重ねて述べれば、大貳は「柳子新論」の中に「田畑を耕して豆と麦を植えようとした時、偶然に一つの石でできた頑丈な箱を見つけた。開けて箱の中を見ると、古代の貨幣が保管されていた。いずれも元(げん)明(めい)天皇(西暦七百十二年古事記完成時の女帝・第四十三代天皇・天(てん)智(ぢ)天皇の皇女)よりも以前の時代に鋳(ちゆう)造(ぞう)された貨幣(和(わ)同(どう)開(かい)珎(ちん))である。箱の底には一つの古書が隠してあった。古書の題名は「柳子新論」と書いてある。普通、そのような状態に置かれた本は随分傷(いた)んでおり、開いて読むことすらできないものだが、「柳子新論」は上質の和紙を用いて製本されていたのでほとんど傷(いた)んでいなかった。甲斐国の人々や土地の神さま、そして官(かん)職(しょく)の方々は、こぞって「柳子新論」が山縣大貳の著作であると認めているのである。なんと嬉しいことではないか。
明治十七年二月上(じよう)澣(かん)(上旬・月の初めの十日)