柳子新論 山縣大貳著 川浦玄智訳注 現代訳(意訳)
正名第一
【本書に一貫している根本精神は幕府が天子(天皇)の大権をぬすんでいるような、名分の乱れを正すところにある。そこで本篇を冒頭におき、名(官制・政治組織・法秩序)を正し、武士が百般の政治をとっている現在の変態的な幕藩体制を一新し、王朝政治の古に復さねばならぬと論じた。(注)】
柳(りゆう)子(し)いはく、物形なくして名あるものあり、形ありて名なきもの、未(いま)だこれあらざるなり。名の以(もつ)てやむべからざるや、聖人これに由(よ)って以(もつ)て教(おしえ)をその中に寓(ぐう)せり。昔、周(しゆう)公(こう)、名を百(ひやつ)官(かん)に正し、而(しか)して萬國(ばんこく)その仁(じん)に服せり。
仲(ちゆう)尼(じ)名を禮(れい)樂(がく)に正し、而(しか)して天下その德を偁(しよう)せり。老(ろう)聃(たん)乃(すなわ)ちいふ、有名は萬(ばん)物(ぶつ)の母と。莊(そう)周(しゆう)もまたいふ、名は實(じつ)の賓(ひん)なりと。儒(じゆ)家(か)の修むる所、法(ほう)家(か)の習ふ所、一にして足らず。我が東方の國(くに)たるや、神(じん)皇(こう)基(き)を肇(はじ)め、緝(しゆう)煕(き)穆(ぼく)穆(ぼく)、力(つと)めて利用厚生の道をなしたまふ。明(めい)明(めい)たるその德、四(し)表(ひよう)に光(こう)被(ひ)すること、一(いつ)千(せん)有(ゆう)餘(よ)年(ねん)。衣(い)冠(かん)の制を立て、禮(れい)樂(がく)の教(おしえ)を設(し)く。周(しゆう)召(しよう)のごときあり、伊(い)傳(ふ)のごときあり。民(たみ)今に至るまで、その化を被(こうむ)らざるなし。
大(だい)貳(に)先生(柳(りゅう)子(し))はおっしゃった。天、空、風などは、形は無いが名前はある。形が在(あ)る物は全て名前がある。形が在ろうが無かろうが、名前の無い物は何一つない。それゆえ、聖人・孔(こう)子(し)は「必ずや名を正(ただ)さんか(正(せい)名(めい))・論(ろん)語(ご)子(し)路(ろ)第十三篇」と教えた。
周(しゅう)王(おう)朝(ちょう)(今から凡(およ)そ三千年以上前に設立された古代中国の王朝)の政治体制の基礎を築いた政治家・周(しゅう)公(こう)旦(たん)は、全ての役人の名を正して仁(じん)政(せい)(思いやりの政治)を行った。国中の人々は周公旦の仁(じん)徳(とく)(思いやりの心)に信(しん)服(ぷく)した。
孔子(字(あざな)・ニックネーム仲(ちゅう)尼(じ))は、周王朝の半ば(凡(およ)そ二千五百年前)に魯(ろ)の国(周王朝を構成している諸(しょ)国(こく)の一つ)に生まれ、五十代の半ばに政治家として活躍した。礼(れい)楽(がく)制度(礼により社会の秩序を保ち、楽によって心を和ませると云う社会規範)を整え、為政者を始め、役人や庶民など各層の名を正した(為政者、役人、庶民など各層に応じた礼楽制度を整えて、それぞれの役割を明確にした)。その後、弟子達によって孔子の功績が広く伝わり、多くの人々が孔子の人(じん)徳(とく)(人間としてのすばらしさ)を称賛している。
「現実社会における生き方」を説いた孔子に対して、「精神世界における生き方」を説いた老(ろう)子(し)は、老(ろう)子(し)道(どう)徳(とく)経(きょう)・第一章で「名無きは天地の始め、名有るは万物の母。/天地の始めは万物には名前が無かった。万物に名前が付けられてから母なる天地が胎動した」と説いている。「老(ろう)荘(そう)思(し)想(そう)」として、老子と並んで称される「荘(そう)子(じ)」は、荘(そう)子(じ)・逍(しょう)遙(よう)遊(ゆう)編(へん)で「名は実(じつ)の賓(ひん)なり。/名前には実質が伴っている」と説いている。
古代中国において、儒(じゅ)家(か)(道徳で社会を治める徳治主義を学んだ人々)も、法(ほう)家(か)(法律で社会を治める法治主義を学んだ人々)も、道(どう)家(か)(老荘思想に代表される精神主義を学んだ人々)も、多様な切り口で、正しいことを説いているが、古代中国においては、思想と社会の在り方が整合していない。易(えき)姓(せい)革命(今の王朝が倒されて新しい王朝が権力の座に就き国家の統治機構が抜本的に変革されること)によって、王朝が次々に代わってしまい、国家としての継続性が見られない。
一方、周王朝の東方にある我が国は、(紀元前六百六十年二月十一日)神(じん)武(む)天皇が初代天皇に即位したことによって始まった(これを肇(ちょう)国(こく)と云う。教育勅語に「国を肇(はじむ)ること宏(こう)遠(えん)に」とある)。周王朝の礎(いしずえ)を築いた文(ぶん)王(おう)(殷王朝を滅ぼして周王朝を立てた武(ぶ)王(おう)の父で理想的な為政者とされた)を賛美して、詩(し)経(きょう)(大(たい)雅(が)文(ぶん)王(おう)の篇)に「穆(ぼく)穆(ぼく)たる文王、於(ああ)緝(しゅう)熙(き)にして敬(けい)して止(とど)まる。/和(やわ)らぎ麗(うるわ)しくして、慎(つつ)ましく威(い)厳(げん)がある文王は、人(じん)徳(とく)が明(あか)々(あか)と光り輝いており、民から尊敬され続けている」と書いてある。
我が国において、歴代天皇は常に国民の幸せを祈って思いやりの政治を追求されてきた。明(あか)々(あか)と光り輝く歴代天皇陛下(不作に苦しむ民に三年にわたり免税した「民(たみ)の竈(かまど)」の話で知られる仁(にん)徳(とく)天皇や「元(げん)寇(こう)」にあたり自らの命を差し出してでも国民を救って欲しいと伊勢神宮に祈った亀(かめ)山(やま)上皇など)の人徳が、遍(あまね)く国中に行き渡り、千数百年もの間、自ら襟(えり)を正されて、(天智~天武~文武天皇の流れで)律令制度や礼楽制度を取り入れ、(聖徳太子が制定した十七条憲法第一条「和をもって尊しとす」で知られる)道義国家日本のあるべき形を示し続けた。