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山縣大弐著 柳子新論 川浦玄智訳注 現代語訳 その二三

勧士第八
【この篇、俳優の類(たぐい)が寵(ちよう)用(よう)せられて士気おとろえたのを論じ、かくれた人材を挙げ用い才能を伸ばさせるようにしなければならないと説いた。(注)】

 柳(りゆう)子(し)いはく、農工商(しよう)買(ばい)、これをこれ民(たみ)の良(りよう)といふ。いはゆる良とは、用を利し生を厚(あつ)うし、相(あい)輔(たす)け相(あい)養(やしな)ひ、以(もつ)て國家に益(えき)ある者なり。故(ゆえ)に先(せん)王(おう)は師を立てて、以(もつ)てこれを教(おし)へ、官(かん)を立てて以(もつ)てこれを治(おさ)め、これを愛し、これを親しみ、これを視(み)ること子の如(ごと)く、編(へん)伍(ご)に制(せい)あり、使(し)役(えき)に法あり、推(お)して以(もつ)て士(し)と相(あい)齒(し)す。これを四(し)民(みん)と謂(い)ふ。良(りよう)たる所以(ゆえん)なり。夫の倡(しよう)優(ゆう)戯(ぎ)子(し)の若(ごと)きは、(若(も)し夫(これ)、倡(しよう)優(ゆう)戯(ぎ)子(し)は、)則(すなわ)ち人の利に由(よ)り、人の財を受け、以(もつ)て人の耳(じ)目(もく)を悦(よろこ)ばし、徒(いたずら)にその口腹(こうふく)を養(やしな)ふのみ。人の衣食を爲(つく)ること能(あた)はず、これを存(そん)する國家に益なく、存(そん)せざるも國家に害なし。故(ゆえ)に先王(せんおう)これを斥(しりぞ)けて、四(し)民(みん)と伍(ご)せしめず。戸(こ)籍(せき)相(あい)別(わか)ち、婚(こん)姻(いん)通(つう)ぜず。これその民(たみ)を視(み)ること、愛に等あり、親に差あり、類(るい)分(ぶん)群(ぐん)聚(しゆう)、これをして各〃(おのおの)その業(ぎよう)を専(もつぱ)らにし、以(もつ)てその生を遂(つ)げしむるものにして、仁(じん)道(どう)存(そん)せり。後世(こうせい)は則(すなわ)ち然(しか)らず。薫(くん)蕕(ゆう)器(き)を同じくし、淄(し)澠(じよう)流(ながれ)を一にし、良(りよう)雑(ざつ)相(あい)混(こん)じ、戚(せき)族(ぞく)分(ぶん)なし。編(へん)戸(と)の法(ほう)壊(こわ)れ、先王(せんおう)の政(まつりごと)歇(や)む。甚(はなは)だしきは則(すなわ)ち倡(しよう)優(ゆう)にして或(あるい)は士の祿(ろく)を受け、功なくして富み、德なくして貴(たつと)く、卒(にわか)にその業(ぎよう)を變(へん)じ、立ちどころに官政(かんせい)に服する者あるに至る。その由(よ)る所を原(たづ)ぬるに、侫(ねい)幸(こう)嬖(へい)寵(ちよう)の旨(むね)を冀(こいねが)ふに非(あら)ざるなし。

 大(だい)貳(に)先生(柳(りゅう)子(し))はおっしゃった。農業を営む人、職人として働く人、商売に励む人、これらの人々が民衆の中の善人である。いわゆる善人とは、仕事をきちんとこなして生活を大切にする人で、お互いに助け合い、養い合って、天下国家に貢献する人々である。
 それゆえ、歴代の天皇陛下は、自ら率先して先生に学んで世の中の模範となり、役人を教育して民衆を教え導いた。また、民衆を慈しみ親しみ、民衆を大(おお)御(み)宝(たから)として我が子のように慈愛の視線を注いでくださった。善人が居住している村里では、五人組制度がきちんと機能しており、社会的な規則と道徳が守られていた。
 以上のようであるから、善人は武士と仲良く共存共栄していた。このような在り方が、本来の士農工商の姿である。このような人達こそ、社会を健全にする善き民衆である。
 それに対して、夫の妾(めかけ)、役者や俳優のような人々は、(或いは、役者や俳優のような人々・江戸時代に河原乞食と呼ばれていた歌舞伎役者などは、)すなわち、民衆の私利私欲を刺激して、民衆からお金を巻き上げた上に、聴覚や視覚に訴えて、民衆を悦ばせる。徒(いたずら)に民衆の食欲や性欲などを満たすだけの存在である。
 無知な人々は、河原乞食にお金を巻き上げられて、衣食住など人間としての文化的生活を営むことを忘れてしまう。このような人々が存在することは日本の国にとって何も利益もなく、このような人々が存在しなくても何一つ困ることはないのである。
 それゆえ、歴代将軍はこのような人々を士農工商の枠外である穢多と位置付けて、一般の民衆と生活領域を分けたのである。
 一般の民衆と河原乞食(穢多)とは戸籍は別になっており、結婚することはできない。また、一般の民衆と河原乞食(穢多)との生活実態を観察すると、人間の愛情に等級があるように、親と子の在り方や教育内容に随分差がある。それぞれが生まれ育った環境(士農工商穢多非人等)に応じて、その人の役割分担(家業相続等)が決まる。その役割分担を全うすることを前提として、人が人を思いやる社会の道徳規範が決まる。そのような役割分担や道徳規範は、後世になると段々崩れていく。
 案の定、後世になると、良い香り(例え)の善人と悪臭(例え)漂う悪人が混在するようになった。名水と汚水が混ざり合えば、名水と汚水の味が区別できなくなるように一つの村落の中で善人と悪人が混在すれば、村人の人間関係が乱れていく。戸籍制度も崩壊していき、歴代将軍による政治運営が段々滞るようになる。非道い場合には、河原乞食など民(たみ)を誑(たぶら)かす人々が武士として俸(ほう)禄(ろく)(安定した収入)を受け取るようになり、何の実績も残さずに経済的に豊かになる。人徳の欠片(かけら)もないのに民から貴ばれるようになり、あれよあれよと、出世して役人に昇格する者まで現れる。なぜ、そのようなことが可能なのか調べてみると、諂(へつら)って偉い人に気に入られ、可愛がられるようになったからに違いない。