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山縣大弐著 柳子新論 川浦玄智訳注 現代語訳 その三七

 これ皆(みな)以(もつ)てその富(ふう)貴(き)を求め、その福(ふく)祿(ろく)を干(もと)め、その心(しん)志(し)を安(やす)んじ、その耳(じ)目(もく)を樂(たの)しましむるに非(あら)ざるなり。務(つと)めて天下の利を興(おこ)し、務めて天下の害を除くのみ。古(いにしえ)の聖(せい)君(くん)賢(けん)主(しゆ)、孰(たれ)かそれ然(しか)らざらんや。然(しか)りといへども務めてその利を興す者、その道に非(あら)ざれば、則(すなわ)ち興らざるなり。由(よ)るべきをこれ道といひ、禮(れい)以(もつ)て中(ちゆう)を教へ、樂(がく)以(もつ)て和を教(おし)ふ。中(ちゆう)和(わ)の至(いたり)、天地位(くらい)し、萬(ばん)物(ぶつ)育(いく)す。豈(あ)に利を興すの道に非(あら)ざらんや。ただ民(たみ)の蠢(しゆん)蠢(しゆん)たる、或(あるい)はその由(よ)る所を失して、禍(か)亂(らん)自(みずか)ら取るときは、則(すなわ)ち從(したが)ってこれを罪(つみ)す。これその害を除くの道なり。それしかる後その惡(あく)を懲(ちよう)し、而(しか)してその善を勸(すす)む。善をなす者多くして、惡(あく)をなす者寡(すく)なければ、則(すなわ)ち天下の利興(おこ)る。禮(れい)樂(がく)は文(ぶん)の具なり。刑罰は武の事なり。文以(もつ)て常を守り、武以(もつ)て變(へん)を制し、文以(もつ)て治(ち)を致(いた)し、武以(もつ)て亂(らん)を撥(おさ)む。この故(ゆえ)に文は順にして武は逆、順にして利を興し、逆にして害を除き、順逆互(たがい)に用ひ、以(もつ)て能(よ)く天下を陶(とう)鑄(ちゆう)す。

 以上のこと(夏王朝から殷王朝に至る物語)は全て、民衆を尊重して、民衆が豊かになり、幸せになることを求めて行われたことである。また、民衆の心が安らかになり、民衆の志が実現するように願って行われたことである。民衆に媚び諂って行われたことではない。為政者が努力して民衆が利益を享受する政策を実施し、民衆を害する事柄を取り除く政策を実施したのである。昔の聖人と称される君主や賢人と讃えられた君主は、どの君主も民衆が利益を享受する政策や民衆を害する事柄を取り除く政策を実施したのである。以上の善政を否定することはできないが、民衆に利益を享受したり、民衆を害する事柄を除く政策を実施しようとする君主が人の道に背くような行いをしたならば、善政にはなり得ない。君主が由るべき基準を人の道と云う。
 中庸に書いてある「中和の教え」を実現するためには、礼儀作法を制度化して「中(その時々に最も適切な対応をすること」の教えを世に広め、音楽詩歌を普及して「和(和を以て貴しとなす)」の教えを世に広めることが肝要である。「中和の教え」が実現すれば、天地の道と人の道が一致して、自然が豊かになり人間社会は安定する。このような政治のあり方が、民衆の利益にならないはずがない。
 残念なことに、民衆は愚かで無知な人が多いので、民衆が道徳心を失して、人災や叛乱を起こした時には、法令や規則に従って民衆を罪人として牢獄に入れることもある。このようなやり方も民衆を害する事柄を取り除く政策である。このような政策を実施した後は、牢獄に入れた罪人を罰して、愚かで無知な人が多い民衆に犯罪を犯すとこのようになるぞと知らしめる。何事も道徳心に基づいた善行に努めるように奨励する。善行に務める人が多く、悪事を働く人が少なければ、天下国家は平和になり、多くの民衆は利益を享受することができる。
 礼楽制度は文化を充実させるための道具である。刑罰は悪を力で封じ込めるための制度である。文化を充実させて平時の社会を安定させ、刑罰を制度化しておいて叛乱等に対処する。礼楽制度のような文化は世の中が順調な時に充実させ(文官の役割)、悪を力で封じ込めるための制度である刑罰は世の中が逆行の時に発動する(武官の役割)。世の中が順調な時に民衆に利益を付与し、逆行の時には民衆を害する事柄を取り除く。時に応じて文武の制度(文官と武官の役割)を適切に用いて、善き天下国家を作り上げるのである。

 善(よ)くこの道に任ずる者、これを德といひ、善くこの道に任じざる者、これを不德といふ。善くこの道を知る者、これを賢といひ、善くこの道を知らざる者、これを不(ふ)肖(しよう)といふ。善くこの道を行ふ者、これを仁といひ、善くこの道を行はざる者、これを不仁といふ。故(ゆえ)にいはゆる仁(じん)者(しや)もまた能(よ)くその利を興(おこ)し、能(よ)くその害を除く者をいふなり。もしそれ世(よ)降(くだ)り國(くに)衰(おとろ)へ、上に聖(せい)賢(けん)の君(きみ)なく、下に忠(ちゆう)良(りよう)の臣(しん)なければ、則(すなわ)ち禮(れい)瀆(けが)れ樂(がく)淫(みだ)らにして、刑(けい)罰(ばつ)勝(あ)げて用(もち)ふべからず。徒(いたず)らに害を除くの道を知りて、利を興(おこ)すの道を知らず。徒(いたず)らに變(へん)を制するを知って、常を守るを知らず。徒(いたず)らに亂(らん)を撥(おさ)むるを知って、治(ち)を致すを知らず。また何の仁かこれあらん。また何の德かこれあらん。これなんぞ能(よ)く政(まつりごと)をなすとなさんや。且(か)つそれ刑罰は、豈(あ)にただに民(たみ)の非をなすを禁ずるのみならんや。苟(いやしく)も害を天下になす者は、國(こつ)君(くん)といへども必ずこれを罰し、克(か)たざれば則(すなわ)ち兵を擧(あ)げてこれを討(う)つ。故(ゆえ)に湯(とう)の夏(か)を伐(う)ち、武(ぶ)の殷(いん)を伐(き)つ、また皆その大なる者なり。ただその天(てん)子(し)より出(い)づれば、則(すなわ)ち道ありとなし、諸(しよ)侯(こう)より出(い)づれば、則(すなわ)ち道なしとなす。況(いわ)んやその群(ぐん)小(しよう)より出(い)づる者をや。故(ゆえ)に善くこれを用(もち)ふれば則(すなわ)ち君(きみ)たり、善くこれを用(もち)ひざれば則(すなわ)ち賊(ぞく)たり。

 道徳心を大切にしている人を「德」の人と云い、道徳心の欠(かけ)片(ら)もない人を「不德」の人と云う。いつも道徳について学んでいる人を「賢」の人と云い、全く道徳を学んでいない人や学ぼうともしない人を「不肖」の人と云う。道徳心に基づいた善行を行っている人を「仁」の人と云い、道徳心に背いた行動を行っている人を「不仁」の人と云う。「仁者=いつも道徳心に基づいた善行を行っている人」は民衆に多くの利益を付与する人物であり、民衆を害する事柄を取り除く人物である。今は世の中が乱れて、天下国家が衰退し、上に聖賢と称される立派な王さまが不在で、下に忠実で良心的な臣下が不在である。あっという間に礼儀作法は廃れ、音楽詩歌は卑猥になり、正しい刑罰を執行する事ができないので、その弊害を取り除くことに汲汲としており、民衆に利益を付与する政策は研究しない。事変を制御するための政策は研究するが、平時を治めるための政策は研究しない。叛乱を抑え込むための政策は研究するが、社会を安定させ民衆を安心させるための政策は研究しない。そのようなことで、どうして、「仁=思いやり」のある政治が実現できようか。どうして、「德=道德心」を大切にした政治が実現できようか。
 以上のようなやり方で善政が実現できるはずがない。しかも、刑罰と云うのは、ただ単に民衆が悪事を働くことを禁じるだけではない。かりそめにも為政者の立場にありながら、天下国家に害悪を被らせるような政治体制や政策を行ったとしたならば、幕府の将軍や各藩のお殿さまであろうとも、刑罰に処するべきである。もし、刑罰に従わないようであれば、兵隊を動員して討(とう)伐(ばつ)すべきである。
 それゆえ、殷(いん)王(おう)朝(ちよう)を立ち上げた湯(とう)王(おう)は夏(か)王(おう)朝(ちよう)を討伐し、周(しゆう)王(おう)朝(ちよう)を立ち上げた武(ぶ)王(おう)は殷(いん)王(おう)朝(ちよう)を討伐したのである。
 民衆に利益を付与する政策が天皇陛下から発せられるのは、人の道に適(かな)った政治である。民衆に害悪が及ぶ政策が諸侯(将軍や藩主)から発せられるのは人の道に反した政治である。民衆が利益を享受する善政を行うのは名君である。民衆に害悪が及ぶ悪政を行うのは、たとえ将軍や藩主であろうと国(こく)賊(ぞく)である。