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山縣大弐著 柳子新論 川浦玄智訳注 現代語訳 その三五

 五(ご)者(しや)は皆天下のことを害し、而(しか)して財これが爲(ため)に通ぜず、貨これが爲(ため)に足らず、豈(あ)に禁ぜざるべけんや。切に望むらくは、公(こう)侯(こう)以下の常(じよう)制(せい)を立て、聘(へい)幣(へい)數(かず)あり、問(もん)遺(い)禮(れい)を以(もつ)てし、饕(とう)餮(てつ)の族を却(しりぞ)け、貪(とん)賺(たん)の俗を移し、犯す者はこれを刑し、違(たが)ふ者はこれを罰せんことを。則(すなわ)ち高貴なる者必ず廉(かど)に、而(しか)して卑(ひ)賤(せん)の者必ず直(なお)からん。それしかる後(のち)、公(こう)侯(こう)能(よ)くその社(しや)稷(しよく)を守り、卿(けい)大(たい)夫(ふ)能(よ)くその祿(ろく)位(い)を保ち、士と庶(しよ)人(じん)と、能(よ)くその身を安んじ、以(もつ)てその妻子に及ばん。これ誠に天下の大(たい)利(り)なり。俗(ぞく)吏(り)の計、ここに出(い)でず。一切打算費用の法を行ひ、朝(ちよう)を汚(けが)し士を浼(けが)し、濫(みだ)りに民(たみ)と利を争(あらそ)ひ、上は勢(せい)利(り)の人に附(ふ)し、下は制を賣(ばい)豎(じゆ)に受け、天下の財をして日に通ぜず、食をして日に足らざらしめ、而(しか)して身自ら窮(きゆう)するは、至(し)愚(ぐ)といふべし。客(きやく)に政事を議する者あり、いはく、財を通じ食を足すの道は、既に命を聞くを得たり。敢(あえ)て敬(けい)從(じゆう)せざらんや。ただそれ物の貴(き)賤(せん)あるは、必ずしも多(た)寡(か)に由(よ)らざるが如(ごと)く然(しか)り。古(いにしえ)は米、石(こく)に二兩、尚(なお)且(かつ)つ以(もつ)て太(はなはだ)貴(たかし)となさず。今や價(あたい)その半(なかば)に過ぎず、而(しか)して饑(き)乏(ぼう)これに倍し、民に菜(さい)色(しよく)あり、野に餓(が)莩(ひよう)あり、敢(あえ)て問(と)ふその故(ゆえ)何(なん)ぞやと。いはく、これまた知り易(やす)きのみ。それ食貨の軒(けん)輊(ち)あるは、猶(な)ほ權(けん)と衡(はかり)とのごときが。多ければ則(すなわ)ち賤(いやし)く、寡(すくな)ければ則(すなわ)ち貴きは、理の必ず然(しか)る所なり。しかも且つこれに反するは、そもそもまた説あり。今、年(ねん)穀(こく)の登らざるは、將(まさ)に古に倍せんとす。

 以上五つの人々を教え導くことを阻害する要因は、どの要因も天下国家に害悪を与えるものである。このような悪しき慣習が蔓延っている社会は、どんなにお金があっても足りない。それゆえ、このような悪しき慣習を社会から一掃することが必要である。切実に望まれるのは、大名や諸侯を始めとして公の立場にある人々が法律や規則をきちんと遵守することである。
 また、地位を得るために贈り物を持って人を訪問する慣習や貢ぎ物など数々の慣習については、訪問や贈答を礼儀正しく行って、貪欲な輩を排除し、欲望をそそるような風習は廃止するべきである。以上に従わない者には刑を与え、それでも刃向かう者は罰することが必要である。
 以上を推進すれば、高貴な人々は必ず新しいやり方に従うようになり、その結果、卑賤の人々も高貴な人々を見習って悪しき慣習を改めようとするであろう。そうなると、大名や諸侯は各藩を安定した状態に保つことができるようになり、大名や諸侯に仕える役人の俸禄と地位は保障され、武士や民衆は安心して生活することができるようになる。その効用は武士や民衆の妻子にまで及ぶ。誠に天下国家の大きな利益になる。低俗な役人の仕事もその(天下国家の大きな利益の)範(はん)疇(ちゆう)で行われるようになる。
 ところが、現在は、あらゆる「利害得失をはかりかぞえるやりかた(宋の姦(かん)臣(しん)・賣(か)似(じ)道(どう)が打算費用の法を行ったのに基づく)・注」によって法律や規則を執行して、朝廷の品位を汚(けが)し、武士の矜(きよう)持(じ)を貶(おとし)め、頻(ひん)繁(ぱん)に民衆から利益を奪い取っている。上位の人々は権力を縦にしている人に付き従い、下位の人々は小役人によって法令や規則を強制されている。いずれも、天下国家の経済活動を重んじているが、日々の生活は安定したものにはならない。庶民は毎日、満足に食事することすらできず、国家財政は枯渇して、国民生活が困窮しているのは、愚の骨頂である。
 中には客観的な立場で次のような議論をする人々もいる。
「経済活動を盛んにして、誰もが、毎日、満足に食事することができるようにするためには、色々な対策があるので、その対策に従うべきだが、夫(それ)々(ぞれ)の物事に貴賤があるのは、必ずしも多いから良いとか少ないから悪いとか云う問題ではない。昔はお米が百升(一石)で二両であったが、それを大いに貴いこととはしなかった(高いとは思わなかった)。しかし、今やお米の価値は当時の半分以下になった。しかし、飢餓は当時の二倍となり、民衆は栄養不足となり、至る所で飢え死にする人が見られる。敢えて質問する。どうしてこういうことになったのか」。
 この議論に対するわたしの見解は、次の通りである。
「その理由は難しいことではない。衣食住や経済力に格差があるのは、計(はか)りの錘(おもり)と竿(さお)の関係と同じである。何事にもバランスが求められる。衣食住や経済力を渇望する人々は賤しい存在であり、衣食住や経済力に淡泊な人々は貴い存在である。武士は貧しく商人が豊かなのは、社会的にバランスをとっているのである。このことに反論する種々雑多な説もある。今の社会で農産物の収穫量が不足するのは、昔の二倍の収穫量を必要とする驕奢な社会になったからである」。

 ここを以て死者亂(らん)痲(ま)の如(ごと)く、而(しか)して餞(せん)貨(か)の通ぜざる。また且(か)つ古(いにしえ)に三倍す。則(すなわ)ち食の足らずといへども、その數(かず)實(じつ)に貨よりも多し。これ物重くして權(けん)輕(かる)きの然(しか)らしむるに非(あら)ずや。況(いわ)んや吏(り)の貪(たん)戻(れい)なる、力(つと)めて民(たみ)の腴(ゆ)脂(し)を竊(ぬす)み、強(し)いて國家の用となし、貨を貴び食を賤しみ、日に錢(せん)財(ざい)を蓄積す。則(すなわ)ち紅(こう)腐(ふ)の米、徒(いたずら)に富(ふ)商(しよう)驕(きよう)奢(しや)の資(し)となり、委(い)積(し)の財、曾(か)って窮(きゆう)民(みん)一(いつ)朝(ちよう)の食に給せず。この時に當(あた)りてや、常(じよう)平(へい)義(ぎ)倉(そう)の良(りよう)法(ほう)ありといへども、何を以(もつ)て得てこれを行はんや。居(きよ)然(ぜん)としてその斃(たお)るるを待つ者、歎(たん)ずべく慨(がい)すべき、これより甚(はなは)だしきとなすはなし。これ豈(あ)にただに民(たみ)をのみ然(しか)りとなさんや。士の俸禄を受くる者、またただ賤(せん)に糶(ちよう)し、貴(たつとき)に糴(てき)し、出(で)入(いり)の經費、徒(いたずら)に商(しよう)賣(ばい)の利となる。則(すなわ)ち一(いつ)歳(さい)の入(にゆう)、卒(つい)に他人の有となる。これ豈(あ)に天地の自然ならんや。財貨の通ぜざる、そもそもまた人(じん)爲(い)の然(しか)らしむるなり。これを久(ひさ)しうして變(へん)せず、聚(しゆう)斂(れん)ここに盡(つ)くるに至る。則(すなわ)ち石(ごく)一(いつ)錢(せん)に直(あたい)せざるも、また猶(なお)以(もつ)て饑(き)歳(さい)となす。これその豐(ほう)儉(けん)に關(かん)せざる者なり。これその貴(き)賤(せん)に繇(よ)らざる者なり。これその食(しよ)貨(つか)の政(まつりごと)なかるべからざる所以(ゆえん)なり。

 以上のことから、死者が乱れ縺(もつ)れた麻糸のように巷(ちまた)に溢れ出て、経済は停滞しやがて飢(き)饉(きん)に陥る。昔に比べて三倍規模の大飢饉である。大飢饉による食糧不足の実態は、食糧不足と言いながらも貨幣の流通量よりも食糧の収穫量の方が多い。食糧の収穫は増産できたのに、それを社会に遍く分配する政策が行われていない。役人が欲深く人の道に背いているからこのようなことになる。
 せっせと民衆から税金を巻き上げて、藩や幕府の財政を膨らませ、民衆を食糧不足に陥らせてまでも、財政至上主義を貫き通す。すなわち、食糧として貴重なお米が食糧として流通せずに、大富豪や大商人などお金持ちの資本として、お蔵に貯蔵されるので、未だに貧しい民衆の食卓に配給されないのである。
 このような時に中って、「支那では漢代以後しばしば実施された、穀物の価格が安い時には高い価格で買い上げて農民を利し、高い時には安い値で売り出して貧民を救い、穀物の価格を常に平均させるために設ける倉(注)」のような良き方法がある。どうしてこのような方法を実施しないのだろうか。
 動くこともできずに痩せ衰えて死んでいくのを待っている人々が存在する。何とも嘆かわしいことであり、これ以上の惨状はない。このような状況は民衆を苦しめるだけでなく、武士として俸禄を頂いている者は、生活苦のため高利貸しにお米を買い叩かれ、高利貸しは高値でお米を売って儲けている(当時武士は生活の困窮から禄米を売ったが、手数料を取られたり、金銭の貸付を受けて高利を取られるなど、ただ仲介商人を利するだけであった・注)。
 すなわち、入ってきた物は出て行き他人の所有物となる。ある意味、これは天地自然の理法である(が、一方で、嘆かわしいことでもある)。
 経済活動が停滞するのは、そもそも、(せっせと民衆から税金を巻き上げて、藩や幕府の財政を膨らませようとする)人為的な政策が引き起こしたことである。民衆を食糧不足に陥らせてまでも、財政至上主義を貫き通すのは、民衆から税金を巻き上げる究極の愚策である。農産物が僅かな収穫高ではない場合(一定の収穫高があったとしても)でも、財政至上主義で税金を取り立てるので饑饉に陥るのである。
 以上のことは、贅沢であるとか質素であるとかいうことと関係なしに起こる人災である。また、貴賤などの身分に関係なく起こる人災である。すなわち、妥当な経済政策が行われないことに起因する人災である。