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山縣大弐著 柳子新論 川浦玄智訳注 現代語訳 その十六

もしそれをして駿(しゆん)に騎(の)り良(りよう)を執(と)り、折衝(せつしよう)の事(こと)に任(にん)ぜしめんか、則(すなわ)ち股(また)はすでに鞍(くら)に勝(た)へず、而(しか)して指もまた弦(げん)に勝(た)へざらん。その兵士の若(ごと)きは、則(すなわ)ち或(あるい)は短(たん)長(ちよう)の兵を取り、數〃(しばしば)険難の地を經(へ)たる者、間〃(まま)またこれあらん。しかもその長たり正たる者、素(もと)より韜鈐(とうけん)の教(おしえ)を聞かず。而(しか)して管轄制(かんかつせい)なく、調(ちよう)練(れん)法(ほう)なし。則(すなわ)ち鼓(こ)するも進まず、金(きん)するも退(しりぞ)かず。旗幟(きし)をこれ辨(べん)ぜず、號令(ごうれい)をこれ聴(き)かず。これを以(もつ)て敵に當(あた)らんか、吾(われ)その適(たまた)ま敗(はい)を取るの道たるを知るなり。なんぞかのいはゆる節制(せつせい)なる者を見んや。勝(しよう)國(ごく)より以降、その能(よ)く然(しか)らざる者は、僅僅指(きんきんゆび)もて數(かぞ)ふべきのみ。昔(むかし)將(まさ)門(かど)関東に割拠(かつきよ)し、純友(すみとも)南海に救(きゆう)應(おう)し、尊號(そんごう)を強(きよう)僭(せん)し、數(すう)州(しゆう)を暴(ぼう)虐(ぎやく)す。秀郷奮然(ひでさとふんぜん)として師(し)を率(ひき)ゐれば、則(すなわ)ち兇(きよう)賊(ぞく)遁(とん)逃(とう)し、叛臣首(はんしんくび)を授(さず)く。悪路王と稱(しよう)し、東(とう)夷(い)を劫(ごう)略(りやく)し窺窬(きゆ)神器に及ぶや、坂君兵を提げ、遽然(きよぜん)として東海に向へば、則ち群盗伏竄(ぐんとうふつざん)し、頑(がん)寇(こう)魂(たましい)を失(しつ)せり。それこの二人は、生まれて山野海島の間にありて、日にその勇を養ひ、月にその智を長じ、完聚(かんしゆ)その道を得、指麾(しき)その法に由(よ)る。故(ゆえ)に能(よ)く大敵(たいてき)を制し、功海内(こうかいうち)に比なく、千(せん)歳(さい)威(い)猛(もう)を稱(しよう)し、百(ひやく)世(せい)驍(ぎよう)勇(ゆう)を稱(とな)ふ。これ古(いにしえ)の能(よ)く武に任ずる者なり。
 
 このような(武道や剣術を習得しておらず、兵法にも長けていない)役人が馬に乗って部下を統率し大将として戦場に駆け付けても、荒馬を乗りこなすこともできず、馬上から弓を射ることもできない。部下の役人もほとんど戦の経験がなく、多少経験があったとしても修羅場を乗り越えたことはない。部下を率いる大将は、兵法や兵学を修得していないので、戦を指揮する知識も能力もない。
 「進め!」と太鼓を叩いても部下は進まず、「退け!」と鉦(かね)を鳴らしても部下は退かない。旗を振っても命令は伝わらない。このような有様で戦をすれば、敗れること必定である。どうして武官としての努めを果たせようか。
 戦が絶えなかった頃は、今のように役立たずの武士はほとんどいなかった。全国各地を駆け回って反乱を鎮圧していた。平安時代には平(たいらの)将(まさ)門(かど)が関東に拠点を置いて反乱を起こしたが、藤(ふじ)原(わらの)秀(ひで)郷(さと)によって鎮圧された。また、瀬戸内海では、藤原純友(ふじわらのすみとも)が反乱を起こしたが朝廷軍に鎮圧された。さらに、悪(あく)路(ろ)王(おう)(蝦夷の首長)が陸(む)奥(つ)(福島、宮城、岩手、秋田、青森の一部)に拠点を置いて反乱を起こし天皇の位を窺ったが、坂(さかの)上(うえの)田(た)村(むら)麻(ま)呂(ろ)によって鎮圧された。この二人(藤(ふじ)原(わらの)秀(ひで)郷(さと)・坂(さかの)上(うえの)田(た)村(むら)麻(ま)呂(ろ))は山や野原や海や島などの自然に親しんで勇気を養い、兵法・兵学を習得してから人を集め戦を率いて実績を積み上げた。昔の武士は以上のような経験を積んでから大将になったのである。
 況(いわ)んやこの二人の時に當(あた)り、武を尚(たつと)ぶの俗未(ぞくいま)だ起(おこ)らず、軍団の諸(しよ)將(しよう)の如(ごと)き、上は兵(ひよう)部(ぶ)の制を奉じ、下は郡國(ぐんこく)の令を承(う)けしに、尚(な)お且(か)つ勇悍精鋭(ゆうかんせいえい)、紀(き)律(りつ)あり、節制(せつせい)あり、これをして征伐(せいばつ)の事(こと)に赴(おもむ)かしむれば、則(すなわ)ち一擧(いつきよ)して枯(こ)を振(ふる)ふが如(ごと)くなるをや。豈(あ)にその文(ぶん)事(じ)ある者は、必ず武備(ぶび)あり、禮樂(れいがく)の教(おしえ)は、強(きよう)禦(ぎよ)も當(あた)るなきを以(もつ)てに非(あら)ずや。これに由(よ)ってこれを觀(み)れば、今のいはゆる武を尚(たつと)ぶ者は、亦(ま)ただに虚(きよ)語(ご)妄(もう)説(せつ)のみ。文武の以(もつ)て相(あい)なかるべからざる。それ然(しか)らざらんや、それ然(しか)らざらんや。仲(ちゆう)尼(じ)の言(げん)にいはく、これを道(みちび)くに政(せい)を以(もつ)てし、これを斉(せい)しぅするに刑(けい)を以(もつ)てすれば、民(たみ)免(まぬか)れて恥なしと。今の天下のごとき、豈(あ)にただに民(たみ)をのみ然(しか)りとなさんや。乃(すなわ)ち卿(けい)大(たい)夫(ふ)士(し)に至りても、またただ免(まぬか)れんことをこれ求めて、曲(きよく)從(じゆう)阿(あ)諛(ゆ)は、一に海内(かいだい)の俗と爲(な)り、廉(れん)恥(ち)の心は爾(に)然(ねん)たり。また安(いずく)んぞこれを君子の朝(ちよう)に齒(し)せんや。ああそれかくの如(ごと)きか。これを要するに皆(みな)武(ぶ)を尚(たつと)びて文を尚(たつと)ばざるの弊(へい)のみ。

 まして、この二人(藤(ふじ)原(わらの)秀(ひで)郷(さと)・坂(さかの)上(うえの)田(た)村(むら)麻(ま)呂(ろ))が活躍した平安時代には、武道や剣術のみを尊重すると云う悪風はまだなかった。朝廷直属の軍隊や諸国に置かれた軍隊は上は朝廷の制度に従い、下は諸侯の命令に従った。このような制約の中でも勇敢さを保ち、規律正しかった。勇敢で規律正しい軍隊なので、征伐に赴けば迅速果敢にまるで枯れ木を振り払うように反乱を鎮圧した。
 平安時代においては詩(し)書(しよ)礼(れい)楽(がく)を習得した文官が武官を制御していた(文武両道)。今の文官(武士)は詩書礼楽を習得していないので、発する言葉は虚しく、頭の中は蒙昧(もうまい)で嘘八百を並び立てて言う。文武を兼ねた武士は皆無である。まことに情けないことである。
 孔子は「之(これ)を道(みちび)くに政(せい)を以(もつ)てし、之を斉(とと)のうるに刑を以(もつ)てすれば、民(たみ)免れて恥無し/法律と刑罰で国を治めれば、民衆は法律だけ重視して不道德を恥じなくなる」と云っている。まさしく、今の日本のことである。どうして民衆を責めることができようか。上級役人さえが世の中に媚(こ)び諂(へつら)い道理を曲げて世の風潮に追(つい)従(しよう)しているので、民衆も道義心を失ってしまったのである。古の礼楽制度を築き上げた歴代天皇陛下に申し訳ないことである。以上の事柄は、武家が武道や剣術ばかり尊(たつと)び、文化や文芸は尊(たっと)ばないことの弊害の現れである。