通貨第十一
【この篇、農民の税を軽くして農事を勧(すす)め、富(ふ)商(しよう)が金にあかせてぜいたくな生活をしているのを厳禁し、官を売買したり賄(わい)賂(ろ)が横行しているのを禁(きん)絶(ぜつ)し、富商権(けん)門(もん)に偏(かたよ)り集った財貨を流通させ物価の高騰を抑止すべきであるを論じた。(注)】
柳(りゆう)子(し)いはく、食を足すの道は、農事を勸(すす)むるより先なるはなく、貨を通ずるの計は、物價(ぶつか)を平(たい)らかにするより先なるはなし。税(ぜい)斂(れん)を厚うせざれば則(すなわ)ち農(のう)勸(すす)み、商利を縦(ほしいまま)にせざれば則(すなわ)ち價(あたい)平(たい)らかなり。古(いにしえ)の時帝王能(よ)くその農を勸(すす)む。故(ゆえ)に夏(か)は五十にして貢(こう)し、殷(いん)は七十にして助(じよ)し、周(しゆう)は百(ひやく)畝(せ)にして徹(てつ)せり。制や異なりといへども、しかもその實(じつ)は皆(みな)什(じゆう)一(いち)のみ。後(こう)世(せい)乃(すなわ)ち租(そ)調(ちよう)の法あり。率(おおむ)ねまた什(じゆう)に一(いち)二(に)を税(ぜい)せり。賢人君子、尚(な)ほ且(か)つ以(もつ)て古(こ)道(どう)に若(し)かずとなす。その價(あたい)を平(たい)らかにするには、周(しゆう)官(かん)に司(じ)市(し)、質(しつ)、廛(てん)、賣(こ)師(し)、泉(せん)府(ぷ)の職あり。鹽(しお)鐵(てつ)茶(ちや)馬(ば)の征には、奕(えき)世(せい)議(ぎ)を置かざることなし。輓(ばん)近(きん)以来、邦(ほう)國(こく)の租(そ)、或(あるい)は什(じゆう)に五六を收(おさ)め、加(くわ)うるに調と庸とを以(もつ)てす。則(すなわ)ち稼(か)穡(しよく)の力は、卒(にわか)にその費を償(つぐな)う能(あた)はず。ここを以(もつ)て田(でん)野(や)日(ひ)に荒れ、農(のう)事(じ)日(ひ)に怠(おこた)る。怠(おこた)ればここに窮(きゆう)し、窮(きゆう)すればここに濫(らん)す。濫(らん)すればここに軼(いつ)す。軼(いつ)して復(かえ)らざれば、則(すなわ)ち年(とし)穀(こく)登(みの)らず、而(しか)して食(しよく)足(た)らず。ただかの商(しよう)賣(ばい)は則(すなわ)ち然(しか)らず。價(あたい)賤(いや)しければ則(すなわ)ち居(お)き、價(あたい)貴(たつと)ければ則(すなわ)ち廢(はい)し、廢(はい)居(きよ)己(おのれ)にあり。而(しか)して利は掇(ひろひと)るが如(ごと)し。且(か)つ大(だい)商(しよう)の人を食(やしな)ふ、動もすれば千百に至る。奴(ど)隷(れい)臧(ぞう)獲(かく)、帛(はく)を衣(き)、肉を食ひ、徒(と)手(しゆ)にして肆(し)に居(い)る。擧止(ふるまい)また何の勞(ろう)かこれあらん。
大(だい)貳(に)先生(柳(りゅう)子(し))はおっしゃった。民の食糧を確保するためには、農業を盛んにする以外に方法はなく、経済を豊かにするためには、物価上昇をある一定の水準に抑制する以外に方法はない。税率を引き下げれば、民は喜んで農業に従事するので、結果的に農業が盛んになり、商業を営む人々が、暴利を貪(むさぼ)らなければ物価は安定する。
古代の政治のあり方を紐(ひも)解(と)くと、帝王が積極的に農業を盛んにする政策を講じていた。それゆえ、夏(か)王朝においては「一夫に五十畝(せ)を与えて、その収穫中から年貢を納めさせた(注)」。殷(いん)王朝においては「はじめて井(せい)田(でん)の法を行ない、六百三十畝(せ)を九区とし、毎区七十畝(せ)、中央の一区を公(こう)田(でん)とし周囲の八家(はつか)がおのおの一区を受け、その力を借りて公(こう)田(でん)を助け耕し、私(し)田(でん)には税をかけなかった(注)」。周(しゆう)王朝においては「一(いつ)夫(ぷ)百(ひやく)畝(せ)を受けた。徹(てつ)は通(つう)で公(こう)田(でん)をお互いに力を通じ合わせ耕作した。公(こう)田(でん)百(ひやく)畝(せ)中(ちゆう)、二十畝(にじゆつせ)は家が建てられていたので、税は什(じゆう)一(いち)、則ち十分の一(注)」であった。
周王朝以降、随や唐王朝の時代になると、祖(そ)(粟(あわ)二(に)石(こく))や調(ちよう)(絹(きぬ)二(に)丈(じよう)と綿(めん)三(さん)両(りよう))という単位で税率を定めた律令制度が成立した。概(おおむ)ね所得の一割から二割の税率である。武士が台頭する前の賢人や君子は、日本の税制は、周王朝時代の税制に及ばないと判断していた。民衆の税負担を軽減する制度について、古代中国の礼に関する古典を調べると、司(じ)市(し)、質(しつ)、廛(てん)、賣(こ)師(し)、泉(せん)府(ぷ)と云う官僚制度がある。塩・鉄・お茶・馬を税として取り立てることの是非については、代々議論されてきたところであるが、近年において、わが国の民(たみ)に課せられる税率は、何と所得の五割から六割に達している。そのため、いくら頑張って農業を営んでも、収穫した農作物は、ほとんど税金として差し出すことになる。生計を立てることは容易なことではなく、農家は意欲を失って農作業を放棄するようになり、田畑は荒れて農業が衰退することになる。
農家が農作業を怠れば、生活に窮するようになる。生活に窮するようになれば心が乱れて生活が荒れる。心が乱れて生活が荒れた農家は社会から逸脱する。社会から逸脱したまま(農作業を放棄したまま)の状態が続けば、農産物を収穫することができない。農産物を収穫できなければ、生活していくことができない。
しかし、商人はその限りではない。希望する値段で商品を販売できない時は在庫しておき、希望する値段以上で商品を販売できる時に売却する。商人は自分の意思で値段を決めることができる。自分の意思で大きな利益を得ることができる。
しかも大商人ともなれば大勢の人を雇用するようになる。積極的に商売を広げて行けば、千人を超える人を雇用することもできる。雇用した人々を奴隷や召使いのようにこき使い、絹の着物を手に入れ、肉をたらふく食べる。そのような暮らしに明け暮れているから、自然と商売人の気質に染まっていく。その暮らしぶりを見ると何の努力もしておらず、何の苦労もしていない。
況(いわ)んやその用(もち)ふる所の凡(ぼん)百(ぴやく)の器(き)玩(がん)、鏤(る)金(きん)彫(ちよう)玉(ぎよく)、貳(に)なく雙(そう)なき者、府に實(み)ち庫(くら)に充(み)つ。娥(が)眉(び)皎(こう)齒(し)、客(きやく)あり姿ある者、坐(ざ)に満ち席(せき)に盈(み)つ。その餘(よ)の金(かね)帛(ぱく)、臧(よ)して發せず、納めて出さず。倚(き)疊(るい)山の如(ごと)く、委(る)積(し)丘(おか)の如(ごと)し。地を買ひ宅を買ひ、一(いつ)夫(ぷ)或(あるい)は千(せん)戸(こ)を私(わたくし)す。房(ぼう)を賣(う)り舎(やど)を賃(か)し、一(ひと)人(り)或(あるい)は鉅(きよ)萬(まん)を占(し)む。之(これ)を居(お)く者は厭(いと)はず、之(これ)を置く者は損なし。故(ゆえ)に一(いち)商(しよう)の廢(はい)居(きよ)は、輒(すなわ)ち一國(いつこく)の入(いり)を傾(かたむ)く。狡(こう)猾(かつ)の才(さい)、揣(し)摩(ま)の術(じゆつ)、禁(きん)もなく制(せい)もなく、ただその欲する所のままなれば、則(すなわ)ちその富(とみ)幾(ほと)んど封(ふう)君(くん)と相(あい)抗(こう)す。故(ゆえ)に天下の異(い)樹(じゆ)珍(ちん)禽(きん)、絶(ぜつ)世(せい)奇(きつ)怪(かい)の物、皆これに歸(き)し、錦(きん)繍(しゆう)綺(き)繒(そう)、華(か)美(び)輕(けい)輭(なん)の物、皆これに歸(き)し、珠(しゆ)玉(ぎよく)これに歸(き)し、金(かね)鐵(てつ)これに歸(き)し、膏(こう)梁(りよう)肥(ひ)肉(にく)これに歸(き)し、美(び)果(か)旨(うま)酒(さけ)これに歸(き)し、巫(ふ)醫(い)工(こう)匠(しよう)これに歸(き)し、俳(はい)優(ゆう)雑(ざつ)伎(ぎ)、百(ひやく)爾(じ)技(ぎ)藝(げい)の者もまた皆これに歸(き)す。それ然(しか)り、則(すなわ)ち天下の貨(たから)、これが爲(ため)に足(た)らず、而(しか)して財(ざい)これが爲(ため)に通(つう)ぜず。ここを以(もつ)て當(とう)世(せい)古(こ)錦(きん)の美なる者、方(ほう)寸(すん)或(あるい)は千金に値し、刀(とう)鐶(かん)の精なる者、一枚或(あるい)は萬(まん)石(ごく)に當(あた)る。
言うまでもなく、大商人が用いている沢山ある煎(せん)茶(ちや)皆(かい)具(ぐ)(お茶の道具)は、金をちりばめ、彫刻を施した宝石を用いている。他(ほか)には見られない一(いち)品(ぴん)物(もの)である。そのような貴重品が屋敷や倉庫の中に沢山保管されている。また、大商人は歯が真っ白に輝いている美人や魅力的な人々に取り巻かれている。沢山の金や絹が有り余っているが、売却せずに蓄えて、外に持ち出すことなく蔵に厳重に保管している。大商人の屋敷や倉庫の中には霊験あらたかな財宝が山のように保管されており、丘のように積み重なっている。沢山の土地や建物を購入して、大商人一人で千人分もの土地や建物を私有している。中には、宿坊を購入して宿泊施設を営み、一人で巨大な富を独占している大商人もいる。世間に大商人を嫌う人などいるはずもなく、大商人の近くにいて損する人など一人もいない。それゆえ、大商人が存在するかしないかは一国の経済にも大きな影響を及ぼす。
大商人は悪(わる)賢(がしこ)くて狡(ずる)いところがある。相手の気持ちを推し量る(忖(そん)度(たく)する)ことが得意である。大商人の言行は禁止されることもなく制限されることもない。何事も大商人が思ったとおりに実行されるので、大商人が保有する富は各藩のお殿様に匹敵するほど裕福である。それゆえ、檜や杉・珍しい鳥類、世に並ぶ物がないほどの逸品、常識では考えられないほど怪しく不思議な貴重品など全て大商人が保有している。また、美しい織物や衣服、日本古代の幅の狭いひも状の織物、厚織の絹織物、華やかで美しく軽く軟らかい物なども全て大商人が保有している。その上、真珠や宝石、美しい物・立派な物なども全て大商人が保有している。さらに、金をちりばめた逸品・鉄を用いた逸品なども全て大商人が保有している。はたまた、美味しい食べ物、脂が乗った肉、美味しい果物、滅多に手に入らない美酒なども全て大商人が保有している。それゆえ、巫女さんやお医者さん、大工・彫り物師・細工師など全て大商人の意のままになる。美しい風貌の俳優や様々な技芸を演じる人々、百人に及ぶほど数多くの技芸を有する人々など全て大商人の意のままになる。
まさしく全てが大商人の意のままになる。すなわち、天下国家に流通する貨幣は、大商人が独占してしまうので社会全体では不足するようになり、価格は暴騰し、やがて、生活物資を手に入れることすら困難になる。
以上のことから、世の中は大商人の意のままに動くようになる。例えば、「古い木綿」でも美しいものならば千両に値するほど価格が暴騰する。また、良質な「刀の取っ手」なら、お米一万石に相当するほど価格が暴騰する。