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山縣大弐著 柳子新論 川浦玄智訳注 現代語訳 その八

 事に臨(のぞ)む者、首(しゆ)鼠(そ)してその進退を決すること能(あた)はず。茫(ぼう)乎(こ)として中(ちゆう)野(や)にあるが如(ごと)く、洋(よう)乎(こ)として中流にあるが如(ごと)し。仁(じん)何(なに)に由(よ)ってか施(ほどこ)さん。忠(ちゆう)何(なに)に由(よ)ってか致(いた)さん。公(こう)侯(こう)皆(みな)然(しか)り。士(し)庶(しよ)皆(みな)然(しか)り。旣(すなわ)ち我が徒(と)また將(まさ)に安(やす)くに依(よ)らんとするや。苟且(かりそめ)の議(ぎ)定(さだ)まり、姑(こ)息(そく)の令(れい)出(い)づ。一(ひと)たびは以(もつ)て是(ぜ)となし、一(ひと)たびは以(もつ)て非となす。民(たみ)の言(げん)にいはく、令すれば行はるること三日、禁ずれば止(や)むこと三日と。朝(ちよう)暮(ぼ)相(あい)變(かわ)り、旦(たん)夕(ゆう)相(あい)戻(もど)る。旣(すなわ)ち我が徒(と)また將(まさ)に何(いず)くに依(よ)らんとするや。それ獸(けもの)に比(ひ)肩(けん)有(あ)り、鳥に比(ひ)翼(よく)有(あ)り。兩(りよう)兩(りよう)相(あい)依(よ)りて、飛(ひ)走(そう)始めて得(え)。若(も)しそれ相(あい)離(はな)るれば則(すなわ)ち病む。これその性たるや、なんぞかの燕(えん)雀(じやく)と犬(けん)羊(よう)との若(ごと)くならんや。且(か)つ人(ひと)此(こ)の二物を見れば、則(すなわ)ち必ず怪(あやし)んでいはん、支(し)離(り)せりと。人にしてかくの如(ごと)し。將(ま)たこれを何とかいはんや。支離せるは則(すなわ)ち固(もと)よりなり。然(しか)れども彼(かれ)自(みずか)ら相(あい)依(よ)るの性あり。飛走してその處(ところ)を得、以(もつ)てその身を養ふ。而(しか)して上に事(つか)ふべきの君(くん)長(ちよう)なく、下に使ふべきの臣(しん)民(みん)なし。ここを以(もつ)て自らその生を遂(と)ぐるに足(た)れば則(すなわ)ちやむ。人の道ある、なんぞそれ能(よ)く然(しか)らんや。上に事(つか)ふるに貳(に)なれば則(すなわ)ち不義。先王(せんおう)常(じよう)刑(けい)あり。下を使ふに貳(に)なれば則(すなわ)ち不(ふ)仁(じん)。兆(ちよう)民(みん)從(したが)ふを肯(がえ)んぜず。

 何か物事に取り組もうとする人は、穴から首を出して様子を窺(うかが)っている鼠(ねずみ)のように、損得で物事を判断しようとする。ぼんやりとしてつかみどころがなく、何をするにもぐずぐず迷って態度が決まらない。まるで行き先の見えないボウフラが川の中流で漂っているようである。このような有様で、どうして「仁(じん)(思いやりの心)」と云う是非善悪の基準で判断することができようか。どうして「忠(ちゅう)(誠実に仕える)」と云う是非善悪の基準で判断することができようか。
 そもそも幕府の役人や諸侯が是非善悪の基準で判断せずに、損得の基準で判断しているのだから、武士や庶民が損得で判断しても仕方あるまい。間に合わせの議論をして、姑(こ)息(そく)な政策を決めて庶民に命じる。ある時はその政策を善しとするが、ある時はその政策では駄目だとする。庶民は噂している。命令した事は三日しか実行されず、禁じた事も三日しかもたない。朝令暮改で元(もと)の木(もく)阿(あ)弥(み)に戻っている。一体、何を基準にして判断すればよいのか庶民は迷っているのである。
 禽(きん)獣(じゆう)は雄(おす)と雌(めす)がそれぞれ(陽と陰)の役割を果たして生きている。それぞれが役割を果たすから、飛び上がったり走ったりして生きていくことができる。それぞれがその役割を放棄すれば病気に罹ったようになってしまう。燕(つばめ)や雀(すずめ)のような小さな鳥も、犬や羊のような小さな獣も、雄雌それぞれの役割(陽と陰の役割)を果たしている。燕(えん)雀(じやく)(ツバメやスズメ)も犬(けん)羊(よう)(イヌやヒツジ)も、雄雌それぞれの役割(陽と陰の役割)を果たしている。今の日本人は、禽獣が雄雌それぞれの役割を果たしている有様を見て「禽獣は常に雄雌一緒に居るわけでなく、分かれ離れて行動しているではないか」と怪しむかもしれないが、それは屁理屈である。何とお粗末な考え方であろうか。禽獣が雄雌分かれ離れて行動していることは当たり前のことである。しかし、禽獣は雄雌それぞれの役割分担を全うして生きているのである。けれども、人間と違って禽獣には上に仕える上司がおらず、下に面倒を見る部下がいない。それゆえ、雄雌それぞれの役割(陽と陰の役割)を果たして生きていくことだけで「天地の道」に適っているのである。
 万物の霊長たる人間には禽獣と違って「人の道」がある。「人の道」を全うしてこそ人間の人間たる所以である。それなのに、今の日本人ときたら、臣民(陰)が本来お仕えすべき君主(陽)であられる天皇陛下を蔑(ないがし)ろにしている。臣民(陰)としての役割を全く果たさずに、その日暮らしに明け暮れて、目先の問題を解決することに汲々としている。朝廷と幕府の二つに仕えることは大義に反しており、昔ならば犯罪に該当する行為である。朝廷の意向に反して幕府が臣下を召し抱えることも仁義に反している。それゆえ、国民は誰一人として、今の朝廷と幕府の在り方に納得していないのである。

 且(か)つや今の人、婦(ふ)に二心あるを聞けば、則(すなわ)ち必ずいはん淫(いん)なりと。臣(しん)にして二心ある。それこれを如(い)何(かん)せん。それ誠にかくの如(ごと)くならんか。婦(ふ)にして貞(てい)なる者は則(すなわ)ち多し。士にして忠なる者、吾(われ)その必ずあることなきを知るなり。況(いわ)んやそれ人情、義あらざるなく、欲あらざるなし。君子はその義に徇(したが)ひ、小人はその欲に徇(したが)ふ。故(ゆえ)に衰(すい)亂(らん)の時に當(あた)り、飄(ひよう)然(ぜん)として髙(こう)擧(きよ)し、世を岩(いわ)穴(あな)の中に避け、意を山林の外に縦(ほしいまま)にする者は君子なり。依然として自ら安んじ、志を臺(たい)閣(かく)の上に屈し、身を市(し)朝(ちよう)の間(あいだ)に終る者は小人なり。昔、黄(こう)憲(けん)齊(せい)に之(ゆ)き、漁(りよう)に隠るる者を見、手を携(たずさ)へて當(とう)世(せい)の事を論じ、乃(すなわ)ちいはく、君子野(や)にあり、齊(せい)それ久しからんやと。彼ただ一君子の志を得ざるを見て、猶(なお)且(か)つその政(まつりごと)の衰(おとろ)へしを知れり。若(も)しそれをしてこの境(さかい)を望ましめんか、必ず將(まさ)に衣を振って去らんとす。又なんぞ得てその地を踏まんや。この時に方(あた)ってや、聖人また起こるといへども、これをいかんともすることなきのみ。國の為(ため)に計(はか)る者、またただ官制を復し、以(もつ)てその名を正し、禮(れい)樂(がく)を興(おこ)し、以(もつ)てその實(じつ)を示すにしかず。君(くん)臣(しん)貳(に)なく、権(けん)勢(せい)一(いち)に歸(き)し、令すれば行はれ、禁ずれば止(や)み、しかる後(のち)君子位(くらい)にあり、小人歸(き)する所あるなり。これをこれ得(とく)一(いち)の道といふ。

 今の人は、人妻が夫以外の男を好きになったら、淫乱だと罵(ののし)るであろう。ならば、朝廷の下位機関である幕府や各藩のお殿様に仕えることで間接的に朝廷に仕えている武士が、天皇陛下に対する忠信を忘れ、お殿様にだけ忠実に仕えていることは、人妻が夫を蔑(ないがし)ろにして、夫以外の男に忠実に仕えていること(すなわち、淫乱)と同じではないか。
 ほとんどの人妻は生涯一人の夫と連れ添っている。本来、朝廷の臣下たる武士が殿様に忠実に仕えることを通して、生涯、天皇陛下に忠実にお仕えするべきだが、残念なことに、今、そのような武士は、ほとんど存在しないことをわたしは知っている。
 あらゆる人間関係は人情(お互いを思いやる心・喜怒哀楽の心)に基づいており、人間は大義と欲望の狭間(はざま)で生きている。君子(立派な人)は大義に従い、小人(普通の人)は欲望に従う。それゆえ、衰退して乱れてしまった我が国を立て直すために、人の上に立つ者は、泰(たい)然(ぜん)として高い志を掲げ、超(ちょう)然(ぜん)として世俗から離れ、自由自在な心で世の中に対処しなければならない。このような人物こそ、まさしく君子である。自分の安全だけを考えて、利益を得るために志を捨て、汲(きゅう)々(きゅう)として保身を図るのは小人である。
 三国志に登場する「黄(こう)憲(けん)」と云う人物は、齊(せい)の国に行った時、世を遁(のが)れて超然と魚(さかな)釣(つり)りをしている素晴らしい人物に出会い、天下国家を論じた。そして「君子が野(や)に下っている(世に用いられない)。齊(せい)の国も長くないなぁ。」と言ったと伝わる。「黄(こう)憲(けん)」は、一人の君子が世に用いられていないことを見て、齊(せい)の国の政治が衰えたことを見抜いたのである。
 このことは、今の日本にそのまま当て嵌(は)まる。嗚呼、武士の衣装(世俗の社会)を投げ捨てて、山奥に隠(いん)遁(とん)してしまおうか。どうやって徳川の世で生きていったらよいのか。
 今の日本に、聖人が現れたとしても、今の日本をどうすることもできない。
 今の状況を打破し、本来あるべき国の形に戻そうとするならば、天皇を中心とした政治制度に復帰すべきである。天皇・皇室、武士・武家、庶民が、それぞれ本来の役割を果たすべく、その名を正し、天皇が国民の幸せを祈るための礼(れい)楽(がく)制度を復興することが、唯一の方法だと思われる。君主は君主としての役割を果たし、臣下は臣下としての役割を果たす。天皇の権威を中心に、天皇の大(おお)御(み)宝(たから)である国民を預かる政府が、天皇の代理として権力を執行する。国民の安(あん)寧(ねい)を願う天皇の意向を請(う)けた政府の命令を、隅々にまで行き渡らせ、君子を然(しか)るべき地位に就(つ)けて、小人は君子に従う。
 以上が我が国日本を蘇生する、得(とく)一(いち)の道(根源的な政治の形)である。