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人生を豊かにする論語意訳 抜粋 その八

泰(たい)伯(はく)篇第八

泰伯第八、第一章
子曰、泰伯其可謂至德也已矣。三以天下譲、民無得而称焉。
子曰く、泰伯は其れ至德と謂う可きのみ。三たび天下を以て譲り、民は得て称すること無し。
 孔先生がおっしゃった。
「(周王朝の礎を築いた文王の祖父・大王の長男である)泰伯こそ、至高の人德者だと評価することができよう。(長男として大王から君位を受け継ぐ立場にあったが、)誰にも気付かれないように君位を文王に譲ったので、民衆は泰伯の人德を称賛することすらできなかったのだから」。20111211

この章に出てくる重要な言葉(概念)
至德:德の極に達して更に加えることができないのをいう(宇野哲人著「論語新釈」)

☆諸橋轍次「論語の講義」には、次のように書いてある。
 周の大王に三人の子があった。長男が泰伯、次が仲(ちゆう)雍(よう)、末が季(き)歴(れき)である。而してこの季歴の子を昌(しよう)といい、聖德があった。後の文王である。当時は殷の天下であったが、いよいよ衰頽に瀕していたので、大王は自分の後を季歴に伝え、季歴から更に昌(文王)に伝えて、殷を滅ぼして周を興さんと欲した。この父の志を知った泰伯は、父の志を実現させるために、弟の仲(ちゆう)雍(よう)と共に国を去って、荊(けい)蛮(ぼん)に隠れた。かくて大王の後、季歴から昌とその位を継いで、ついに周室を興したのである。この間において泰伯のとった態度は、人目に目立たぬものであったため、大王が位を季歴に譲ることが、いかにもやむを得ぬ、自然の姿であるかのように民をして信ぜしまたのである。実は泰伯と仲(ちゆう)雍(よう)とは一人の母であり、季歴は後母の子であったから、その間にもおのずから複雑な点があって、下手なやり方で位を譲ることをあらわにすれば、或いは父の過ちを民に知らしめる結果ともなりかねない。かかる際に処して身を犠牲にした泰伯のやり方がまことに立派であったのである。
☆吉川幸次郎著「論語 上」には、次のように書いてある。
 篇の名にもなった泰伯は、人名であり、周王朝創業前期の賢人である。その事跡として孔子が記憶していたものが、いま、われわれがもつ伝説と大差なしとすれば、次のごとくである。周王朝の祖先が、まだ殷王朝治下の、西方の一諸侯として、陜西省西部にいたころ、まず頭角をあらわした君主は、大王であり、三人の子があった。長男がここの話題の泰伯、次男が仲(ちゆう)雍(よう)、末子が季(き)歴(れき)であり、季歴の子が、のちに周王朝の創業を決定した英雄、文王である。
 祖父の大王は、孫の文王の才能をはやくから見ぬき、これに王位を伝えようとした。そのためにはまず、季歴をあととりとしなければならぬが、父の意向を察した泰伯と仲雍は、南方の未開地域である呉のくに、すなわちいまの蘇州附近に亡命し、かつ断(だん)髪(ぱつ)文(ぶん)身(しん)、ざんぎり髪のいれずみという、南方の蛮人と同じ風俗に身をやつして、父の継承者たることを拒否し、王位がうまく季歴を経由して、文王に伝わるようにした、というのである。
 この条は、そうした泰伯の行爲を、至德、至上の道德、と批評しうべきものと、たたえたのである。
☆安岡正篤著「十八史略(上)」には、次のように書いてある。
『論語』の泰伯篇に、「子曰く、泰伯は其れ至德と謂うべきのみ。三たび天下を以て譲る。民得て称する無し」。三たび天下を譲って、その德が余りにも大きいものですから、民衆はあたかも太陽の德によって生きながら、太陽を何とも思わぬ、水を飲んで生きながら、ふだんは水のありがたさがわからんように、民衆はこれに対して無心であった。これが政治の至れる典型であるというのが、シナ民族の今日に至るまでの一つの慣習的心理であり、中国独特の虚無の思想に通ずるものです。中国の最も突きつめた哲學からいうと、人間の意識に上がるようではだめ、いわゆる無意識、無でなければならん。人にほめられるようではまだだめなんで、人が気づかんくらいに偉くならなければいかん。こういうのが理想です。