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人生を豊かにする論語意訳 抜粋 その七

述(じゆつ)而(じ)篇第七

述而第七、第一章
子曰、述而不作、信而好古。竊比於我老彭。
子曰く、述べて作らず、信じて古を好む。竊(ひそ)かに我が老(ろう)彭(ほう)に比(ひ)す。
 孔先生がおっしゃった。
「わたしは自分の考えや思想を創作しようとしているのではない。古人の教え(古典)を心から信じて学び続けているのである。殷の老彭という名の賢人が古典を心から愛好したというが、わたしは密かに老彭に自分を重ねているのである」。20221008

この章に出てくる重要な言葉(概念)
述べて作らず:述は循で、何かにしたがうこと、つまり先人の學問を祖述することである。作は創作、新しい文化を創造すること、とくに禮楽の制度を創設することを意味する。
老(ろう)彭(ほう):殷王朝につかえた賢者、彭(ほう)祖(そ)は長寿で有名であったので、老彭と称したという説と、老子と彭祖の二人の先賢をさしたという説がある。(以上、貝塚茂樹著「論語」より)

☆貝塚茂樹著「論語」には、次のように書いてある。
 孔子の學問の傾向をよくいいあらわしている。内省的な孔子は、自己の學問のやり方を、他人を批判するように客観的にとらえている。「祖述するだけで創作しない」とは、たいへん謙遜しているように見えるが、この立場を確固として守るところに、強い自信があらわれている。作を創作と訳したが、漢語の創作は日本語の創作が文學作品、とくに小説を書くのとちがっている。それは、もっとひろく、とくに禮楽の制度を立案し実施することをさす場合が多い。周公が周の禮を作ったことが典型的な創作であった。それは、文化的なことであるが、それを実行するのは政治的な行動であった。孔子が「述べて作らず」といったときには、こういう政治的な世界から絶縁したことが意味されている。
☆金谷治著「孔子」には、次のように書いてある。
 孔子はいう、「古い伝承を祖述して新しい創作はしない、むかしのことを厚く信じて愛好する。そんな自分をこっそりとわが信愛する老彭の態度にも比べている」と。孔子が新奇を好む人でなかったことは、はっきりしている。古い伝承をたいせつにして、そのなかで、当代に新しく生み出されたものよりももっと新鮮なものが息づいていることを、孔子は認めていた。創作にともなう独断の危険を知っていたのであろう。そして、無けなしの知識をふりまわして新しいことを言いたがる人を軽蔑したのであろう。
☆佐久協著「高校生が感動した『論語』」では、次のように訳している。
 わたしは古代の聖人たちの業績を伝えることを自分の任務と心得ており、新説を創り出すつもりはないんだ。次から次に新しいものを追いかけるよりも失われた良きものを発掘して評価することが大切だよ。(以下省略)

述而第七、第二章
子曰、黙而識之、學學而不厭、誨人不倦、何有於我哉
子曰く、黙して之を識(しる)し、學んで厭わず、人に誨(おし)えて倦まず、何んぞ我に有らんや。
 孔先生がおっしゃった。
「人の道を學び心に刻み込む。人間學を体得するための修養を怠らない。体得した人間學を弟子に伝授することを生涯の使命とする。それがわたしの人生である。それ以外には何の取り柄もない」。
20111203 20221019
この章に出てくる重要な言葉(概念)
黙して之を識(しる)す:口に出さずに心に留めること。之は道理を指す

☆金谷治著「孔子」には、次のように書いてある。
「何か我れに有らんや…何有於我哉」は難解な句で異説もあったが、用例を帰納すると、特別のものとしてあるのではない、つまり特にむずかしいことではないという意味で、そこに自負の気分もふくまれている。「だまって覚えておき、あきることなく學び、倦み怠ることなく人を教える、このぐらいのことは、わたしにとって何でもないことだよ」という。(中略)これこそが自分の本領で、自分の取りえなのだと、孔子は自負する。人びとの教師として、その勉學を見ならってほしい、という気持ちもあったかもしれないが、むしろここまでが自分のできること、自分の本領だとして、さらけ出した趣がそこにはある。
☆吉川幸次郎著「論語 上」には、次のように書いてある。
 この条は、読みやすいように見えて、しかも読み方がいろいろさまざまである。(中略)「黙して之を識(しる)す」とは、いろいろと言(こと)あげせずに、沈黙のうちに、事柄をよく認識する。「學んで厭わず」とは、學問というものは、すればするほど新しい境地が開け、従って新しい責務を感ずるものであるがいや気をおこさず、學問を持続する。「人に誨(おし)えて倦まず」とは、教育というものは、相手があっての事柄であり、相手はなかなかこちらのいうことを納得しないものであるけれど、そのために熱意をうしなわない。この三つのことだけは、「何んぞ我れに有らんや」、私にとって特別に困難なことではない。(中略)仁斎は、それらのことだけには自信があるが、そのほかのことは、何が私に有ろうか、と読み、(中略)別の一説もそれに同じいが、やや無理であろう。また新注が、(中略)これらの道德は、どうして私にあろうか、私にはない、とするのは、おそらく何有の二字の原義ではない。
 吉川先生は、「やや無理であろう」と書いているが、わたしは、仁斎の「それらのことだけには自信があるが、そのほかのことは何が私に有ろうか」とした解釈を採用した。