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陰陽古事記伝 天若日子の派遣 三

□あらすじ
 天(あめの)若(わか)日(ひ)子(こ)が死んだことが高天原に伝わったので、家族が出雲の国に降りてきて葬儀を行った。大国主の御子で天(あめの)若(わか)日(ひ)子(こ)の義理の兄が弔いに来たところ、容貌が天(あめの)若(わか)日(ひ)子(こ)にそっくりだったので天(あめの)若(わか)日(ひ)子(こ)が生き返ったと勘違いされた。死人と間違えられた義理の兄は激怒した。

【書き下し文】
故(かれ)、天(あめの)若(わか)日(ひ)子(こ)の妻(つま)、下(した)照(てる)比(ひ)賣(め)が哭(な)く聲(こえ)、風と響(ひび)きて天(あめ)に到(いた)りき。是(ここ)に天(あめ)に在(あ)る天(あめの)若(わか)日(ひ)子(こ)の父、天(あま)津(つ)國(くに)玉(たま)の神及び其(そ)の妻子(めこ)聞きて、降(くだ)り來て哭(な)き悲しみて、乃(すなわ)ち其處(そこ)に喪屋(もや)を作りて、河雁(かわかり)を岐(き)佐(さ)理(り)持(もち)と爲(な)し、鷺(さぎ)を掃(はは)持(きもち)と爲(な)し、翠鳥(そにどり)を御(み)食(け)人(びと)と爲(な)し、雀(すずめ)を碓(うす)女(め)と爲(な)し、雉(きぎし)を哭(なき)女(め)と爲(な)し、如此(かく)行い定めて日八日(ひやか)夜八夜(よやよ)以(もち)て遊(あそ)びき。
此(こ)の時に、阿(あ)遲(に)志(し)貴(き)高(たか)日(ひ)子(こ)根(ね)の神到(き)て、天(あめの)若(わか)日(ひ)子(こ)の喪(も)を弔(とむら)いし時に、天(あめ)より降(お)り到(いた)れる天(あめの)若(わか)日(ひ)子(こ)の父、また其の妻(め)、皆(みな)哭(な)きて、「我(あ)が子は死なずて有りけり。我(あ)が君(きみ)は死なずて坐(いま)しけり」と、云(い)いて、手足に取り懸(かか)りて哭(な)き悲(かな)しみき。其(そ)の過(あやま)ちし所以(ゆえ)は、此(こ)の二柱(ふたはしら)の神の容姿(かたち)、甚(いと)能(よ)く相(あ)い似(に)たり。故(かれ)、是(ここ)を以(も)ちて過(あやま)ちき。是(ここ)に阿(あ)遲(に)志(し)貴(き)高(たか)日(ひ)子(こ)根(ね)の神、大いに怒(いか)りて曰(いわ)く、「我(あ)は愛(うるわ)しき友に有るが故(ゆえ)に弔(とむら)い來(き)たるのみ。何(なに)とかも吾(あ)を穢(きたな)き死人(しにびと)に比(なぞ)うる」と、云(い)いて、御(み)佩(はか)せる十(と)掬(つか)の劍(つるぎ)を拔きて、其(そ)の喪屋(もや)を切り伏(ふ)せ、足を以(も)ちて蹶(く)え離(はな)ち遣(や)りき。此(これ)は、美濃(みの)の國の藍(あい)見(み)の河(かわ)の河上(かわかみ)に在(あ)る喪(も)山(やま)なり。其(そ)の持(も)ちて切(き)れる大刀(たち)の名(な)は大量(おおはかり)と謂(い)い、またの名を神(かむ)度(ど)の劍(つるぎ)と謂う。故(かれ)、阿(あ)遲(に)志(し)貴(き)高(たか)日(ひ)子(こ)の神は、忿(いか)りて飛び去りし時に、其(そ)の妹(いも)高(たか)比(ひ)賣(め)の命(みこと)、其(そ)の御名(みな)を顯(あらわ)さんと思いき。故(かれ)、歌いて曰(いわ)く、
 天(あめ)なるや 弟棚機(おとたなばた)の 項(うな)がせる 玉(たま)の御統(みすまる)
 御統(みすまる)に  足玉(あなだま)はや み谷(たに)   二渡(ふたわた)らす
 阿(あ)遲(に)志(し)貴(き)高(たか)日(ひ)子(こ)根(ね)の 神ぞ
此の歌は夷振(ひなぶり)なり。

〇通釈(超釈はない)
 天(あめの)若(わか)日(ひ)子(こ)は死んだ。その妻下(した)照(てる)比(ひ)賣(め)が天(あめの)若(わか)日(ひ)子(こ)の死を悲しみ泣き叫ぶ声が、風に乗って高天原まで響いて届いた。高天原に居る天(あめの)若(わか)日(ひ)子(こ)の父天(あま)津(つ)國(くに)玉(たま)の神と天(あめの)若(わか)日(ひ)子(こ)の妻子がその泣き声を聞いて出雲の国に降りてきた。天(あめの)若(わか)日(ひ)子(こ)の父と妻子は、天(あめの)若(わか)日(ひ)子(こ)が亡くなったことを大変悲しみ、その亡骸を安置するために喪(も)屋(や)を作って、河雁(かわかり)を岐(き)佐(さ)理(り)持(もち)(葬儀の時、死者に供える食べ物を持つ係)、鷺(さぎ)を掃(はは)持(きもち)(葬儀の時、箒を持つ係)、翠鳥(そにどり)(かわせみ)を御(み)食(け)人(びと)(葬儀の時、死者に供える食べ物を作る係)、雀(すずめ)を碓(うす)女(め)(葬儀の時、米を搗(つ)く係)、雉(きぎし)を哭(なき)女(め)(葬儀の時、号(ごう)泣(きゆう)慟(どう)哭(こく)する係)と、葬儀における役割を決めて、八日の間、朝から晩まで死者を弔う歌舞を行った。
 葬儀の時に、天(あめの)若(わか)日(ひ)子(こ)の妻下(した)照(てる)比(ひ)賣(め)の兄であり、天(あめの)若(わか)日(ひ)子(こ)の友人でもある阿(あ)遲(に)志(し)貴(き)高(たか)日(ひ)子(こ)根(ね)の神が天(あめの)若(わか)日(ひ)子(こ)を弔うために訪れたところ、その容貌が天(あめの)若(わか)日(ひ)子(こ)にそっくりだったので、高天原から降ってきた天(あめの)若(わか)日(ひ)子(こ)の父天(あま)津(つ)國(くに)玉(たま)の神と天(あめの)若(わか)日(ひ)子(こ)の妻子は、天(あめの)若(わか)日(ひ)子(こ)が生きていると勘違いし、嬉し泣きして「わが子は死なずに生きていた。わが夫は死なずにここに居る」と言って、阿(あ)遲(に)志(し)貴(き)高(たか)日(ひ)子(こ)根(ね)の神の手足に取りすがって泣き崩れた。すると、阿(あ)遲(に)志(し)貴(き)高(たか)日(ひ)子(こ)根(ね)の神は激怒して、「わたしは愛しい友人を弔うために訪ねてきたのに、どうして、わたしを穢れた存在である死人と間違えるのか」と言って、腰に挿していた長剣を抜き、喪屋をバッサバッサと切り倒して足で蹴飛ばしてしまった。この蹴飛ばされた喪屋は、今、岐阜県美濃市の藍見河の上流にある喪山という名の山である。また、喪屋をバッサバッサと切り倒した長剣の名は大(おお)量(はかり)といい、またの名を神(かむ)度(ど)の劍(つるぎ)という。さて、激怒した阿(あ)遲(に)志(し)貴(き)高(たか)日(ひ)子(こ)根(ね)の神が立ち去った後、その妹である下(した)照(てる)比(ひ)賣(め)(高(たか)比(ひ)賣(め)の命(みこと))は、兄の名前を広く知ってもらうために、次のように唄った。
 天(あめ)なるや 弟棚機(おとたなばた)の 項(うな)がせる 玉(たま)の御統(みすまる) 御統(みすまる)に
 足玉(あなだま)はや み谷(たに) 二渡(ふたわた)らす 阿(あ)遲(に)志(し)貴(き)高(たか)日(ひ)子(こ)根(ね)の 神ぞ
 天の上にいらっしゃる若い機織り娘が、首にかけておられる、玉をつないだ首飾り。その首飾りの穴の開いた玉のように、谷二つにも渡っているのが、阿(あ)遲(に)志(し)貴(き)高(たか)日(ひ)子(こ)根(ね)の神であります。
 この歌を、夷振(ひなぶり)という。