沼(ぬな)河(かわ)比(ひ)賣(め)求婚
□あらすじ
嫉妬深い須世理毘賣(すせりびめ)に辟易とした須佐之男は北陸地方に理想的な女性がいると聞き、沼(ぬな)河(かわ)比(ひ)賣(め)の家を訪ねて求婚した。
【書き下し文】
此(こ)の八(や)千(ち)矛(ほこ)の神、高志(こし)の國(くに)の沼(ぬな)河(かわ)比(ひ)賣(め)を婚(あ)わんと
して幸行(いで)しし時に、其(そ)の沼(ぬな)河(かわ)比(ひ)賣(め)の家に到りて
歌い曰(たま)ひしく、
八(や)千(ち)矛(ほこ)の 神の命(みこと)は 八(や)島(しま)國(くに)
妻(つま)娶(ま)きかねて 遠遠(とおとお)し 高志(こし)の國(くに)に
賢(さか)し女(め)を ありと聞かして 麗(くわ)し女(め)を
ありと聞こして さ呼(よ)ばひに あり立たし
呼(よ)ばひに あり通(かよ)はせ 太刀(たち)が緒(お)も
未(いま)だ解(と)かずて 襲(おす)衣(い)をも 未(いま)だ解(と)かねば
おとめの 寝(な)すや板戸(いわと)を 押(お)そぶらひ
我(あ)が立(た)たせれば 引(ひ)こづらひ
我(あ)が立(た)たせれば 青山(あおやま)に 鵺(ぬえ)は鳴(な)きぬ
さ野(の)つ鳥(とり) 雉(きぎし)は響(とよ)む 庭(にわ)つ鳥(とり)
鶏(かけ)は鳴(な)く 心痛(うれた)くも 鳴(な)くなる鳥(とり)か
この鳥(とり)も 打ち止(や)めこせね いしたふや
天馳(あまはぜ)使い 事(こと)の 語(かた)りごとも 此(こ)をば
爾(しか)くして其(そ)の沼(ぬな)河(かわ)比(ひ)賣(め)、未(いま)だ戸を開(ひら)かずして、内より歌い曰(たま)ひしく
八(や)千(ち)矛(ほこ)の 神の命(みこと) 萎(ぬ)え草(くさ)の
女(め)にしあれば わが心 浦(うら)渚(す)の鳥ぞ
今こそは 我(あ)鳥(どり)にあらめ 後(のち)は
汝(な)鳥(どり)にあらむを 命(いのち)は な殺(し)せたまいそ
いしたふや 天馳(あまはせ)使い 事(こと)の
語(かた)りごとも 此(こ)をば
青山(あおやま)に 日(ひ)が隠(か)くらば ぬばたまの
夜は出(い)でなむ 朝日の 笑(え)み栄(さか)えきて
栲綱(たくづの)の 白き腕(ただむき) 淡雪(あわゆき)の
若(わか)やる胸を そ叩(だた)き 叩(たた)き愛(まな)がり
真(ま)玉(たま)手(で) 玉(たま)手(で)差(さ)し枕(ま)き 股(もも)長(なが)に
寝(い)は寝(な)さむぞ あやに な恋(こ)い聞(き)こし
八(や)千(ち)矛(ほこ)の 神の命(いのち) 事(こと)の
語(かた)りごとも 此(こ)をば
故(かれ)、其(そ)の夜(よる)は合わずして、明(あ)くる日の夜(よる)に御(み)合(あい)爲(し)き。
〇通釈(超釈はない)
八(や)千(ち)矛(ほこ)の神(「八千(沢山)」の「矛(武器・武力)」を保有する「武神」)という別名をもっている大国主の神は、須世理毘賣(すせりびめ)と八(や)上(かみ)比(ひ)賣(め)と自分との間に生じた三角関係に嫌気がさして、他に理想的な女性を求めていたところ、北陸地方に美しい姫がいると伝え聞き、その美女の誉れ高い沼(ぬな)河(かわ)比(ひ)賣(め)をお嫁さんに迎えたいと思い、北陸地方に出かけて行き、沼(ぬな)河(かわ)比(ひ)賣(め)の家の前で、次のような歌をお詠みになった。
八(や)千(ち)矛(ほこ)の 神の命(みこと)は 八(や)島(しま)國(くに)
妻(つま)娶(ま)きかねて 遠遠(とおとお)し 高志(こし)の國(くに)に
賢(さか)し女(め)を ありと聞かして 麗(くわ)し女(め)を
ありと聞こして さ呼(よ)ばひに あり立たし
八(や)千(ち)矛(ほこ)という武神で名高いわたしだが、出雲の国で理想的な妻に巡り逢えないという運命に悩んでいた。
遙か遠くの北陸地方に賢くて美しい姫がいると伝え聞いて、是非お嫁さんに迎え入れたいものだと思い、出雲の国から訪ねてきて、家の前で求婚しているのだ。
呼(よ)ばひに あり通(かよ)はせ 太刀(たち)が緒(お)も
未(いま)だ解(と)かずて 襲(おす)衣(い)をも 未(いま)だ解(と)かねば
おとめの 寝(な)すや板戸(いわと)を 押(お)そぶらひ
我(あ)が立(た)たせれば 引(ひ)こづらひ
あなたに、求婚したいという気持が高まって、ここまで訪ねてきたのだ。太(た)刀(ち)の紐(ひも)もまだ解(ほど)かずに、衣服もまだ脱がずに着たままで、あなたが、寝ている家の玄関の戸を、何度も押して揺すって立ち竦んでいるのだ。
我(あ)が立(た)たせれば 青山(あおやま)に 鵺(ぬえ)は鳴(な)きぬ
さ野(の)つ鳥(とり) 雉(きぎし)は響(とよ)む 庭(にわ)つ鳥(とり)
鶏(かけ)は鳴(な)く 心痛(うれた)くも 鳴(な)くなる鳥(とり)か
このようにして、玄関の戸を何度も押して揺すっていると、青々と生い茂っている山の麓で、鵺(ぬえ)という鳥が気味の悪い哀調をおびた声で鳴いている。野にいる雉(きじ)も騒がしく鳴いている。庭にいる鶏も盛んに鳴いている。このように沢山の鳥が嘆いて鳴いているのである。
この鳥(とり)も 打ち止(や)めこせね いしたふや
天馳(あまはぜ)使い 事(こと)の 語(かた)りごとも 此(こ)をば
いまいましく鳴いている沢山の鳥たちを、ぶっ殺してやりたいほど、わたしはイライラしているのだ。天をも駆け抜けるような天命を授かった鳥たちが、わたしの思いをあなたに伝えてくれることを願っている。
以上のように痛切な思いで唄われた求婚の歌を強引に聞かされた沼(ぬな)河(かわ)比(ひ)賣(め)だが、決して玄関の戸を開くことなく、家の中から次の歌を詠んだ。
八(や)千(ち)矛(ほこ)の 神の命(みこと) 萎(ぬ)え草(くさ)の
女(め)にしあれば わが心 浦(うら)渚(す)の鳥ぞ
八(や)千(ち)矛(ほこ)という武神で名高い大国主の神さまの運命に対する見解は理解しましたが、わたしは、運命に流されるしかないなよなよとした浮き草のような女ですから、わたしの心は入り江の渚にいる鳥のようです。
今こそは 我(あ)鳥(どり)にあらめ 後(のち)は
汝(な)鳥(どり)にあらむを 命(いのち)は な殺(し)せたまいそ
その鳥は、今はわたし自身ですが、やがては、あなたの鳥になるのでしょう。だから、沢山の鳥たちを殺すことはおやめください。
いしたふや 天馳(あまはせ)使い 事(こと)の
語(かた)りごとも 此(こ)をば
天をも駆け抜ける運命の鳥たちを通して、この切なる願いをあなたにお伝えしたいと思います。
青山(あおやま)に 日(ひ)が隠(か)くらば ぬばたまの
夜は出(い)でなむ 朝日の 笑(え)み栄(さか)えきて
栲綱(たくづの)の 白き腕(ただむき) 淡雪(あわゆき)の
若(わか)やる胸を そ叩(だた)き 叩(たた)き愛(まな)がり
青々とした山に日が沈むと、暗く不気味な夜がやってきます。あなたは朝日のように爽やかな笑顔でやってきて、わたしのまっ白な腕や、淡雪のように若々しい胸を、そっと触れたり撫でたりするでしょう。
真(ま)玉(たま)手(で) 玉(たま)手(で)差(さ)し枕(ま)き 股(もも)長(なが)に
寝(い)は寝(な)さむぞ あやに な恋(こ)い聞(き)こし
八(や)千(ち)矛(ほこ)の 神の命(いのち) 事(こと)の
語(かた)りごとも 此(こ)をば
あなたは、玉のようなわたしの手を枕にして、いつまでもお休みになるでしょう。ですから、性急に求婚の言葉を発しないでください。八(や)千(ち)矛(ほこ)という武神で名高い大国主の神さま、どうか、わたしの気持をわかってください。
以上のような歌のやりとりの後、大国主は沼(ぬな)河(かわ)比(ひ)賣(め)の気持を深く理解して、その夜、無理矢理沼(ぬな)河(かわ)比(ひ)賣(め)に逢うことはやめて、次の日にゆっくりと逢って、身心共に一体となったのである。
大国主が沼(ぬな)河(かわ)比(ひ)賣(め)に求婚した理由について、参考までに「阿部國治著 新釈古事記伝 第二集」から、抜粋要約して引用する。
「須世理毘賣のお心は、八上比賣が因幡にお帰りになった頃は、八上比賣の悲しい心にご同情になったに違いないのですが、だんだん日がたつにつれて『自分が勝った』という高慢心が起こってまいりました。このような、須世理毘賣の心の荒(すさ)びに誘われて、大国主の心もだんだんと荒(すさ)んでいきました。こうして、大国主と須世理毘賣との間に、大きな溝ができたのであります。大国主が、このような有り様でおられるとき、高(こ)志(し)の国(北陸地方)に沼(ぬな)河(かわ)比(ひ)賣(め)という立派なお比(ひ)賣(め)さまがおられるということが、大国主の耳に入りました。大国主は、この沼(ぬな)河(かわ)比(ひ)賣(め)をお嫁に欲しいとお思いになり、その思いを実行にお移しになりました。」