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人生を豊かにする論語意訳 抜粋 その十八

微(び)子(し)篇第十八

微子第十八、第一章
微子去之、箕子爲之奴、比干諫而死。孔子曰、殷有三仁焉。
微子は之を去り、箕(き)子(し)は之が奴(ど)と爲り、比(ひ)干(かん)は諫めて死す。孔子曰く、「殷に三仁あり」。
(殷の紂王の暴政を嘆いて、)微子(殷の紂王の異母兄)は、国を捨てて荒野に逃れた。(そこに殷の祭器を保ち、今にも絶えんとする殷の祭禮を保存することに努めた。)箕子(紂王の叔父)は紂王を諫めたため、捕らわれて幽閉され、比干(紂王の叔父)は、諫めたあげく殺された。(三人とも志を曲げずに、紂王の暴政を諫めた。そこで、)孔先生が言われた。「殷王朝には三人の仁者がいた…」と。2012

この章に出てくる重要な言葉(概念)
微子:殷王朝最後の紂王の兄になる王子。紂王の暴虐に愛想をつかし、国を捨てて逃亡した。周王朝が殷王朝を征服すると、民間に身を隠していた微子を呼び出して、宋国の国君として、殷王朝の祖先の祭祀を行わせた。
箕子:殷の紂王の叔父にあたる王族。紂王の虐政を諫めたが聞き入れられないので、髪をふり乱して狂人をよそおい、奴隷の群れにはいって、姿をくらましたという伝説がある。周の武王が殷を滅ぼした後、箕子を召し出して、殷王朝に伝わる教訓、つまり『書経』の洪(こう)範(はん)(書経(周書)」の編名。伝説では、禹が尭舜以来の思想を整理・集成したもので、殷の箕子を経て周の武王に伝えられたという。天の常道と治世の要道を九つの範疇によって示す。辞書より)の伝授を受けた。箕子はその後、朝鮮、じつは東北地方に封ぜられたという。
比(ひ)干(かん):紂王の叔父にあたる王族。賢者であった比干は、紂王を激しく批判したため、王の怒りをかい処刑された。
(以上、貝塚茂樹著「論語」から)

☆貝塚茂樹著「論語」には、次のように書いてある。
 この篇のはじめに、殷の王族の三賢者を持ち出したのは、乱世に処する賢者の態度をあきらかにしようとするためである。虐政に正面から抗議して死する比干、諫めが聞き入れられねば政治から逃避して身をまっとうする微子・箕子、それぞれべつの生き方をした。孔子は、どれを最善としたわけでもないが、乱世には隠士となるしか仕方がないという道家の無爲思想の影響のもとにあった。戦国時代の儒教教団においての、孔子のことばと伝承すべきであろう。
☆陳(ちん)舜(しゆん)臣(しん)著「論語抄」には、次のように書いてある。
 殷末の紂王の時代、紂の兄にあたる微子は、紂の無道を怖れて逃亡しました。紂の諸(お)父(じ)にあたる箕子は紂を諫めましたが、きき入れられなかったので、狂人をよそおって奴隷となりました。おなじ紂の諸父の比干は、紂を諫めて殺されました。孔子は「殷には三人の仁者がいた」と言いましたが、この三人のことです。
 殷の紂王は暴虐の天子として知られています。
 しかし、伝えられているほどの大悪人でないと、ほかならぬ『論語』のなかで、子貢のことばとして引用されているのです(子張第十九、第二十章、引用者注)。吹き溜まりのような場所(下流)を避けよ、というくだりにあります。紂王も下流にいたので、あらゆる悪という悪が、彼のしたこととされたというのです。
 伝えられているほどの大悪人ではないが、王朝が滅亡したのですから、悪人であることにはまちがいないというのが、孔子時代の紂王評価でしょう。
 国が滅亡すると祭祀が絶え、祖先の霊が滅ぼした側にたたるという考えがあり、周も殷を滅ぼしたあと、殷の遺民を宋という国にうつし、祭祀を継続させました。遺民の国「宋」のあるじとなったのが、ここに出てくる微子だったのです。
 孔子その人も殷の遺民の末裔でした。孔子はその死にあたって、自分はもともと殷人だから、殷の禮式に従って葬ってほしいと遺言しています。
 箕子はのちに朝鮮の国王になったと伝えられています。ただし箕子朝鮮は伝承的色彩が強く、史実として認められるには至っていません。
 孔子は殷人の末裔ですが、それほど殷人意識は強くありません。殷が周によって滅ぼされたのは、孔子より六百年も前のことです。孔子が聖人とあがめ、年老いてその夢をみることがすくなくなったと嘆いたのは、ほかならぬ殷を滅ぼした周の人の周公でした。
殷の紂王の兄にあたる微子は、ここにあるように逃亡しています。殷を滅ぼしたあと、周は出奔した微子をさがし出して、宋という国を与えました。
 孔子にとって周は、殷を滅ぼしはしましたが、その一族の残亡勢力の微子に、小国ではありますが宋という国を与え、祭祀をつづけさせてくれた恩人でもあったのです。
 表面的には殷は全滅を免れましたが、やはり亡国の民として、いろいろとつらい目に遇っていたのでしょう。
 春秋時代、殷の遺民の国宋も力をつけ、その国のあるじ襄公は、覇者争いの一角に名をつらねるようになりました。紀元前六三八年、宋は楚と戦いました。楚が布陣する前に攻めれば勝てるのに、襄公は「君子は敵が準備しないときに戦うものではない」と、楚が布陣してから攻めて敗れたのです。人びとは無益のなさけをかけることを「宋襄の仁」というようになりました。まのぬけたやり方とからかっているのですが、宋が亡国の末裔だという、一種の蔑視もあったようです。
 兎がたまたま切株に頭をぶつけて死んだので、農夫が耕作しないで、株ばかり見張ってつぎの兎を得ようとした話があります。これは『韓非子』にある話ですが、この「守(しゆ)株(しゆ)」のまぬけ男は宋の農夫となっているのです。
 当時亡国の子孫をからかう、こんな笑い話がたくさん作られたのでしょう。六百年前に滅亡した殷人意識はないとはいえ、孔子はこんな蔑視を受けたグループに属していたのです。