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人生を豊かにする論語意訳 抜粋 その十九

子(し)張(ちよう)篇第十九

子張第十九、第一章
子張曰、士見危致命、見得思義、祭思敬、喪思哀、其可已矣。
子張曰く、士は危うきを見て命を致し、得(う)るを見て義を思い、祭に敬を思い、喪に哀を思わば、其れ可なるのみ。
 子張が言った。
「(人の上に立つ)士は、國家の危機には命を投げ出して事に中たり、利益は義に基づいているかを考え、祖先の祭祀は敬する心を尽くし、葬儀には哀しむ心を尽くす。このようであってこそ、(人の上に立つ)士と称することができるのだ」と。2012

この章に出てくる重要な言葉(概念)
士:士は道を求める者、學問を學ぶ者などいろいろの側面があるが、ここでは才能によって主君につかえる者という根本的な意味で使われている(貝塚茂樹著「論語」)。

 複数の解説本を参考にしながら、わたしなりに訳してみた。呉智英著「現代人の論語」には、「自分の學派をもった時、弟子にでも語ったのだろう。語られた言葉そのものは立派だが、それは魂の籠もらぬものだったのではなかろうか」と書いてある。
☆陳舜臣著「論語抄」には、次のように書いてある。
 この子張は『論語』のなかで、最も頻繁に出てくる人物です。けれどあまり高く評価されていません。彼は子夏とよくくらべられました。二人は対照的でした。「過ぎたるは猶お及ばざるがごとし」の、「過ぎたる」ほうが子張で、「及ばざる」ほうが子夏でした(先進第十一、第十五章、引用者注)。
 その子張が言いました。「君に仕える者は、危険に際しては命をささげ、利益のあるときは取るべきかどうかと考え、祭禮には敬虔の情を尽くし、葬儀には哀しみをこめ、それができればまず及第でしょう」と。

子張第十九、第二章
子張曰、執德不弘、信道不篤、焉能爲有、焉能爲亡。
子張曰く、德を執(と)ること弘(ひろ)からず、道を信ずること篤からずんば、焉んぞ能く有りと爲さん、焉んぞ能く亡(な)しと爲さん。
 子張が言った。
「德を磨こうとして途中でやめてしまう。人に道があることを心から信じられない。どうして、德の有益さを理解できようか…。德の無益さを証明できようか」。2012

 加地伸行著「論語」などを参考にしながら、わたしなりに訳してみた。ひょっとして、これは子張のことではないだろうか…。
☆吉川幸次郎著「論語 下」には、次のように書いてある。
 德を執ること弘からず、道を信ずること篤からざる人間、そんな人間は、存在ともなり得なければ、非存在ともなり得ない。つまり世の中に対し、何の影響力をも、もたない。諸注も同じである。
☆五十嵐晃著「論語の訳注と考究」には、次のように書いてある。
現代語訳:
 子張曰く、道德の信奉に熱意がなく、道德の実行は低調である。(そのようでは)生きていても価値があるわけでもなく、死んでも惜しまれない。
 考究二:「焉能爲有、焉能爲亡」難解の句で、次のように解釈はまちまちである。
 ①そんな人間は、存在ともなり得なければ、非存在ともなり得ない《吉川幸次郎》。②道德がありともいえずなしともつかず、あぶはち取らずになってしまうぞ《穂積思遠》。③どうして道德有りとせんや、無しとせんやの意で、有るとも無いともいえない。存在の価値が無い《吉田賢抗》。④どうして其の人物の存在理由が有るとか無いとか言えようか。(存在理由のない失格者だ)《木村英一》。⑤居るというほどのこともなく、居ないというほどのこともない。(居ても居なくても同じだ)《金谷治》。⑥世に生きていても何の影響なく、死んでいても何の影響もない《貝塚茂樹》。⑦いったいやる気があるのだろうか、ないのだろうか《宮崎市定》。
 私見によれば、この句が難解であるのは、句の末尾に、それぞれ「生」字が省略されていることに思い至らないからである。それを補って解釈すれば下記のようになる。「焉能爲有生」(焉んぞ能く生有りと爲さん)「焉能爲亡生」(焉んぞ能く生亡しと爲さん)であり、これを直訳すれば、「(どうしてよく生きたとしようか)よく生きたとはしない。(どうしてよく死んだとしようか)よく死んだとはしない」ということで、意訳すれば、「よく生きたということでもなく、惜しい死でもない」となる。さらに意訳すれば、次のようになる。「生きて価値があるわけでもなく、死んでも惜しまれない」。
☆わたしが参考にした加地伸行著「論語」では、次のように訳している。
 子張のことば。人格を高めるとしてもある程度で終わり、人の道を信ずるとしても熱心でないとすれば、その人に道德があるとも言えないし、ないとも言えないことになる。〔なんにもならない。〕