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人生を豊かにする論語意訳 抜粋 その四

2023年1月4日

里(り)仁(じん)篇第四

里仁第四、第一章
子曰、里仁爲美。択不処仁、焉得知。
①子曰く、里は仁を美と爲す。択(えら)んで仁に処(お)らずんば、焉んぞ知とするを得ん。
②子曰く、仁に里(お)るを美と爲す。択(えら)びて仁に処らずんば、焉んぞ知たるを得ん。
 孔先生がおっしゃった。
①「人が暮らす里は、思いやりの気風があるところが宜しい。思いやりの気風のある人里に住まなくて、どうして智者と言えようか」。
②「思いやりを心の安住地とすれば美しい心が育まれる。思いやりを心の安住地とせずに、どうして智者になれようか」。
20111103
この章に出てくる重要な言葉(概念)
里:通常は二十五軒の家から成る集落。ここでは、わが心の住む里とした
択ぶ:通常は里を選ぶこと。ここでは、心得ることとした
処る:通常は居住すること。ここでは、心安んじて安住することとした

 ほとんどの解説本では、人の居住する場所(人里)を選ぶべきことを述べたものと捉え、「智者は是非善悪を見分けるものであり、仁の気風があるところを選んで住まないのは是非善悪を見分ける本心を失った人である」と訳している。これに対して、諸橋轍次「論語の講義」では、「里は仁を美となす」ではなくて、「仁に里(お)るを美となす」と読み、「身を処するに仁を以てする」と訳して、「仁というところに行いの拠り所を持つことが美しいのに、仁を取るか取らないかという選択が自分にあるにもかかわらず、仁を選ばないようであれば、どうして智者といえようか」と訳している。諸橋轍次先生の解釈を基本として、渋沢栄一著「『論語』の読み方」を参考にしながら、わたしなりに訳してみた。
☆渋沢栄一著「『論語』の読み方」には、次のように書いてある。
 孟子はこの項の言葉を引用して、
「仁は天から授かる位であり、人の安住できる場所である」と言っている。村里は都会と違って仁の厚い風習があり、こういう土地にいれば、朝夕接する人はみな仁に厚く、見るもの聞くものすべてよい風俗なので、自然に德が育ち、老いも若きも仁に厚い風習が身についてくる。もし住居を選ぶならば、このようなよい風俗のある村里がよろしい。
 昔の學者の説は以上のようなものであるが、私はこの解釈だけでは物足りないので、これを少し拡張して広義に解釈したい。孔子の精神は、おそらくはどこに住んでもかまわないから、「仁德」を自分の心の拠り所としていなければならないという意味だろうと思う。孔子が別のところで、「君子これに居らば何の陋(いやし)きことこれあらんか」(「子罕篇〔9-13、引用者注〕…どんな所、どんな土地であろうと、そこに君子が住めば自然と文化に化せられるものです。いやしい、むさ苦しいなどということはないものです、の意」と言っているのをみても、その意味のあるところがわかる。
☆吉川幸次郎著「論語 上」には、次のように書いてある。
 章のはじめの、里仁爲美の四字は、それによって篇名の里仁も生まれていること、例のごとくであるが、じつは難解な四字である。江戸時代の普通の訓で…は、里は仁を美しいと爲(す)、と読む。(中略)里とはむらであり、厳密にいえば二十五軒の家から成る集落であると、「周禮」に見えるが、むらでも仁厚の風俗にあるところは美しい、と説く宋の朱子の説から生まれた訓点である。(中略)だから択(えら)んで仁に処(お)らずんば、焉(いずく)んぞ知なるを得ん、住居を選択する場合にも、よく考えて、そうしたところに住まなければ、聡明な、知性ある人物とはいえない、ということになる。つまり人間は、環境が大切だから、せいぜい環境のよいところに住むがいい、ということであって、まるで分からないことはないけれども、分かりやすい説ともいえない。
(荻生、引用者)徂徠は新説をたてていう。まず、里とは名詞でなく動詞であって、(中略)仁に里(お)るを美と爲す、と読むべきであるとし、かつこの一句は古くから伝わる諺を、孔子が引いたのであるとする。また、択んで仁に処らずんば、焉んぞ知なるを得ん、という二句は、古い諺の意味を、孔子が、当時の言葉で説明したのであって、人が行動の立場を選択する場合、その立場を仁に処かないものは、智者とはいえない。そうした抽象的な意味であって、従来の説のように、仁者の里へ引越しせよ、ということではない。そもそも、自由な引越し、ということは、古代にはあまりなかったはずだと、説く。

里仁第四、第二章
子曰、不仁者、不可以久処約。不可以長処楽。仁者安仁、知者利仁。
子曰く、不仁者は以て久しく約に処(お)るべからず。以て長く樂に処るべからず。仁者は仁に安んじ、知者は仁を利す。
 孔先生がおっしゃった。
「思いやりのない人は、長期間の節約生活に耐えられない。また長期間、安楽な境遇に居ると堕落する。仁者はいつも仁を失わない。知者は仁を追い求める」。20111103

この章に出てくる重要な言葉(概念)
不仁者:私欲のために德を失った者
約:貧賤
べからず(不可):不能の意味
楽:富貴
仁に安んず:心を用いないで自然に仁に違わない境地
仁を利す:仁を追求して得ようとする境地
(以上、宇野哲人著「論語新釈」を参考にした)

☆宇野哲人著「論語新釈」には、次のように書いてある。
 仁者は仁と一体になっているが、知者はまだ仁と一体になっていないから、両者の間には深浅の区別はあるけれど、どちらも貴賤貧富のために心を奪われることはない。
☆吉川幸次郎著「論語 上」には、次のように書いてある。
 不仁者とは、いうまでもなく仁者の反対概念であり、仁の德をもたない人間である。約とは窮乏の生活を意味する。不仁者が窮乏の生活に長くいれば、窮乏にたえきれずして、いろんな不都合をしでかす。陽貨篇第十七に、「其の未だに之を得ざるや、之を得んことを患(おも)い、既に之を得れば、之を失わんことを患う」というのを思いあわす。また不仁者は、長く得意の地位にいることもできない。きっと僣上沙汰をしでかすからである。
 仁者はそうでない。ところで仁ある人間の中にも段階があって、本当の仁者は、生まれつき仁であるから、仁に安住する。また知者、すなわち知性に富む人物は、仁の德のよさを知っているから、仁を利用する。
 言葉の意味は以上のごとくであるが、前半と後半とは、どの注釈によっても、よくつらならないように思う。
 仁者と知者とがしばしば対比して論ぜられていることは、のちの章が、おいおい示す如くである。たとえば雍也篇第六にいう。知者は水を楽しみ、仁者は山を楽しむ。知者は動き、仁者は静かなり。知者は楽しみ、仁者は寿(いのち)ながし。
☆佐久協著「高校生が感動した『論語』」では、次のように訳している。
 仁者でないと長くは逆境に耐えられないし、安楽な生活にもダレてしまって身を保てないものだ。仁者はいかなる境遇にも安住できる心を養うために修養に励むが、なまじ頭のよい知者は何か利益を求めて修養に励もうとするから、いざとなると、やっぱり差がでるね。