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人生を豊かにする論語意訳 抜粋 その五

公(こう)冶(や)長(ちよう)篇第五

公冶長第五、第一章
子謂公冶長、可妻也、雖在縲絏之中、非其罪也。以其子妻之。
子謂南容、邦有道不廃、邦無道免於刑戮。以其兄之子妻之。
子、公(こう)冶(や)長(ちよう)を謂う、「妻(めあ)わすべし、縲(るい)絏(せつ)の中(うち)に在りと雖(いえど)も、其の罪にあらず」と。其の子を以て之に妻わす。
子、南(なん)容(よう)を謂う、「邦に道あれば廃(す)てられず、邦に道なきも刑(けい)戮(りく)を免る』と。其の兄の子を以て之に妻わす。
 孔先生が弟子の公冶長の人物を評した。「娘と結婚させてもよい。牢獄に入っていたこともあるが、無実の罪であった」と。そして、自分の娘と結婚させた。
 孔先生が弟子の南容の人物を評した。「国が治まっている時に左遷させられることなく、国が乱れている時に罰せられることもない」と。そして、自分の兄の娘と結婚させた。20111112

この章に出てくる重要な言葉(概念)
縲(るい)絏(せつ):縲(るい)は黒い索(さく)(なわのこと)、絏(せつ)は「つなぐ」こと、古は獄中では黒縄で罪人を繋いだという(宇野哲人著「論語新釈」より)
邦に道あり:国がよく治まっているとき、治世
邦に道なし:国が乱れているとき、乱世

☆金谷治著「孔子」には、次のように書いてある。
「公冶長」は門人。姓は公冶、名は長。斉の人、また魯の人ともいう。~中略~公冶長について、自分の娘婿にするだけの値うちがあると認定したのである。「妻どりさせてよい」。ただ、彼はかつて獄中につながれたことがあった。人はそれをとかくの噂にしがちであるが、それは彼の犯した罪ではなかったと、孔子は釈明する。そして、そのことばどおり娘を嫁入らせた。公冶長のことは『論語』中ここに見えるだけで、くわしいことは不明である。皇(おう)侃(がん)の『義(ぎ)疏(そ)』によると、彼は鳥語を理解したために死体の場所を知り、そのために殺人の嫌疑をうけたのだというが、もちろん仮託の伝説であろう。門人の人物をはっきり見ぬいて、世間の風評などにとらわれることのない孔子の態度に、注目すべきである。
 国家が正しいあり方をしているときには必ず重く用いられ、国家が乱れて無秩序なときにも刑死にあうようなことはない。南容はそういう人物だという。先進篇六では「南容、白(はく)圭(けい)を三復す」ということがいわれている。白圭は『詩経』の句で「白き玉のきずはなお磨くべし、ことばのきずはつくろいもならず」というのである(大雅・抑篇)。それをいつもくりかえして歌っていたというから、南容はことばづかいに慎重な人であったのだろう。この章のことばはもちろんそれと関係している。寡黙で信頼できる人、国家有用の人材であるうえに口禍をまねくこともない。孔子は兄の娘を嫁がせた。

公冶長第五、第二章
子謂子賤。君子若人。魯無君子者、斯焉取斯。
子、子(し)賤(せん)を謂う。君子なる哉若(かくのごとき)き人。魯に君子なくば、斯(こ)れ焉(いずく)んぞ斯(これ)を取らん。
 孔先生が弟子の子賤の人物を評した。
「君子であるなぁ。このような人が。魯国にお手本とするような君子がいなかったら、どうして子賤があれほど立派な人物になれたであろうか」。20111112

この章に出てくる重要な言葉(概念)
若(かくのごとき)き人:はっきりこれと指さない言い方

☆諸橋轍次「論語の講義」には、次のように書いてある。
 子賤は孔子の門人であり、かつて単(たん)父(ぼ)という土地を治めたことがあるが、琴を弾き、身、台を下らずして単父を治めた。ある人から、どうして、そのように無爲にして治められるのかと質問されたところ、人に任じて治めた。人に任ずる者は楽をし、力に任ずる者は骨を折ると教えたという。この一つを見ても、子賤の人物が知られる。また、孔子が子賤にその交際範囲を質問したところ、子賤は、父として事(つか)える者三人、兄として事える者五人、友として交わる者十有二人、師とする者が一人あると答えた。これを聞いて孔子は、父(ふ)事(じ)する三人によって孝を教えられ、兄事する五人によって弟を教えられ、友とする十二人によって己の蒙(もう)を開き、師とする一人によって失策を防ぐ。かくの如くであるならば、単父を治めるに足るのみならず、天下を治めるに足ると言ったという話が、古書に出ているが、この章で孔子が魯の君子といっているのは、おそらくこれらの人々を指したものであろう。
☆吉川幸次郎著「論語 上」には、次のように書いてある。
 子賎とは、弟子の宓(ふく)子(し)斉(せい)であり、孔子より四十九歳若かったと、「史記」の「弟子列伝」に見える。それに対する孔子の批評である。君子なる哉、若くのごとき人よ。かれのごとき人こそ紳士である、というのであって、若の字は、一字で若此(かくのごとき)の意味である。孔子はそう賞賛した上、つけ加えていった、かれのごとき紳士が出たのも、かれの模範となるべき紳士が、魯の国にたくさんいたからである。もし、魯のくにに、君子がいなかったとすれば、斯(こ)れ焉(いず)くにか斯れを取らんや、上の斯は、斯の人、すなわち子賎であり、下の斯は、斯の道德、すなわち君子たる道德であると、朱子の注にいう。つまりかれも、どうして、この地位を取得しえたであろう。先輩として多くの君子がいたればこそ、子賎のごとき君子が出たというのである。