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易経(周易)を読み解く 十一(乾為天 九四)

九四 ――― ――― ○晴・大雨・晴○ 之卦 九風天小畜
九四。或躍在淵。无咎。
○九(きゆう)四(し)。或(ある)いは躍(おど)りて淵(ふち)に在(あ)り。咎(とが)无(な)し。
 九三の段階を経て、君子としての基礎力を身に付けた九四は、時には躍動するように成功するが、時には淵(ふち)に沈むように失敗する。成功と失敗を繰り返す不安定な時だが、今は飛龍として羽ばたくためのチャンスを掴む時だから、大きな過失には至らない。
或躍在淵、進无咎也。
○或(ある)いは躍(おど)りて淵(ふち)に在(あ)りとは、進むも咎(とが)无(な)き也(なり)。
 時には躍動するように成功するが、時には淵に沈むように失敗する。成功と失敗を繰り返す不安定な時だが、今は飛龍として羽ばたくためのチャンスを掴む時だから、大きな過失には至らない。九四の時は、成功しても驕(おご)ることなく、失敗しても怯(ひる)むことなく、飛龍を目指して果(か)敢(かん)に進んで行く時なので、大きな過失は犯さないのである。

九四曰、或躍在淵。咎无、何謂也。子曰、上下无常、非爲邪也。進退无恆、非離羣也。君子進德脩業、欲及時也。故无咎。
○九四に曰(いわ)く、或(ある)いは躍(おど)りて淵(ふち)に在(あ)り。咎(とが)无(な)しとは、何の謂(い)いぞや。子曰く、上下すること常なきも、邪(じや)を為(な)すには非(あら)ざる也。進退すること恆(つね)なきも、羣(むれ)を離るるに非ざる也。君子德に進み業を脩(おさ)むるは、時に及ばんことを欲する也。故に咎无きなり。
 九四の爻辞に、「或(ある)いは躍(おど)りて淵(ふち)に在(あ)り。咎(とが)无(な)し」とあるが、どういう意味であろうか。
 孔先生は次のように解説された。
 時には躍動するように成功するが、時には淵に沈むように失敗する。不安定な時なので傍(はた)からは怪しく見えるが、九四に邪(よこしま)な気持ちがあるわけではない。
 また九四は、進んでみたり退いてみたりして、行動が定まらないけれども、組織の調和を乱そうとしているわけではない。
 九四は君子たる人德を磨くために、持ち場(生活や仕事の場)を大切にして、黙々と成果を積み上げている。天下に慈雨を施す飛龍の地位を得るために、幸運の女神と巡り逢うことを欲しているからである。それゆえ、大きな過失は犯さないのである。
 ただし、潜龍の段階で打ち立てた「確乎不抜の志」をねじ曲げて飛龍の地位を得ようとしてはならない。飛龍の地位を得るのは「確乎不抜の志」を実現するためだからである。

或躍在淵、自試也。
○或(ある)いは躍(おど)りて淵(ふち)に在(あ)りとは、自ら試(こころ)みる也。
 時には躍動するように成功するが、時には淵に沈むように失敗する。成功と失敗を繰り返す不安定な時であるが、大きな過失には至らない。今、自分の力(君德)が、どの程度世間で通用するかを試(ため)しているからである。

或躍在淵、乾道及革。
○或いは躍りて淵に在りとは、乾(けん)道(どう)及(すなわ)ち革(あらた)まるなり。
 時には躍動するように成功するが、時には淵に沈むように失敗する。成功と失敗を繰り返す不安定な時であるが、大きな過失には至らない。今、自分の力(君德)が、どの程度世間で通用するかを試しているからである。やがて九四は幸運の女神と巡り逢って時を掴(つか)み、飛龍として大空に羽ばたく。名君となって天下に慈雨を施すのである。

九四、重剛而不中。上不在天、下不在田、中不在人。故或之。或之者、疑之也。故无咎。
○九四は、重(ちよう)剛(ごう)にして中(ちゆう)ならず。上(かみ)は天に在(あ)らず、下(しも)は田(でん)に在らず、中は人に在らず。故に之(これ)を或(わく)す。之を或すとは、之を疑う也。故(ゆえ)に咎(とが)无(な)きなり。
 九四は陽爻が重なっている(初九・九二・九三)上に居て、中(ちゆう)庸(よう)の位置(九五の位)には到達していない。上に居る飛龍(天)にはまだ到らず、下に居る見龍(田)からは随分離れてしまった。人の位には居るが、地(九二)に足が着いていない。
 以上のように不安定な時だから、九四自身大いに惑(まど)う。自分が惑うのだから、人から疑われても仕方がない。けれども、九四は自分の力(君德)が、どの程度世間で通用するかを試(ため)しているのである。それゆえ、大きな過失には至らないのである。

【以下、高島易断から占いとしての見立てを引用】
(占)進退の是非を判断するため、才能と智慧を用いて運用する時。
○大德を具えた龍が地の淵から飛び立ち、出入自由自在な時。
○盛運は目前。ひたすら進行して盛運を手に入れるべく努力する時。
○考えすぎて時を失する事がある。