六十一 風澤中孚 ☴ ☱
風澤中孚☴☱の形を小成卦で見ると大きな離☲となる。離は真ん中が空洞で中虚である。中虚は己を虚しくする心であり、無我である。無我は自我に囚われない。自我は私利私欲につながるから無我は私利私欲に囚われない心、すなわち真心である。
風澤中孚は真心を大切にする時である。幕末の志士吉田松陰の座右の言葉は孟子の「至誠にして動かざる者は、未だ之有らざる也。/これ以上至れるところがないほど至上の真心を抱いて物事に対峙すれば、その真剣な言行に感動しなかった人は、歴史上に一人もいない。」である。孟子は次のようにも言っている。「誠は天の道也。誠を思うは人の道也。/天には私利私欲がないから、自然に無我の道を歩んでいる。しかし、人間には私利私欲があるから自然に無我の道を歩めない。それゆえ、人間は無我の境地(誠)に思いを馳せて、無我の道を歩もうと努力するのである。」
風澤中孚の中孚とは「孚に中る/真心そのもの(至誠)」である。孟子の「至誠にして動かざる者は、未だ之有らざる也」である。すなわち、真心そのもの(至誠)である風澤中孚の時には、不可能なことは何一つないのである。何事かを成し遂げようとしても不可能だとしたならば、それは真心(至誠)が足りないのである。「孚に中る/誠に至る」ことができれば、人から不可能と言われるような困難な事に挑戦しても、成し遂げられるのである。例え、志半ばで絶命しても、必ず誰かがその志を引き継いで、何時かは成し遂げられるのである。
易経の経文には「孚」という言葉が何度も出てくる。「孚有り」と云う言葉は五水天需(結果を待つ時)、九風天小畜(十翼剛を制する時)、風地観(将来の方向性が見える時)、雷天大壮(もの凄い勢いで物事が成就する時)、澤火革(抜本的に社会や組織を変革する時)で使われている。
八水地比(みんな仲良くする時)には「初六、孚有りて之に比(した)しめば、咎无し。孚有りて缶に盈つれば、終に来たりて他有り、吉。/初六は真心に満ち溢れて相手と仲良くするので、何も問題は起こらない。初六の真心は質素な器に酒が溢れ出るようである。やがて、天子からご褒美を賜る。吉運の極みである」とある。