叔(しゆく)世(せい)は則(すなわ)ち然(しか)らず。凡(およ)そ一才一藝(いちさいいちげい)に名ある者、幸(さいわ)ひにして一たび擢(たく)拔(ばつ)を蒙(こうむ)れば、則(すなわ)ち能と不能とを問ふことなく、子(し)孫(そん)奕(えき)葉(よう)、相(あい)嗣(つ)いで一家の業となし、已(や)めんと欲するも能(あた)はず、ここを以(もつ)て強(し)いてその事(こと)を治(おさ)むれば、則(すなわ)ちこれを以(もつ)て桎梏(しつこく)となさざる者、蓋(けだ)し鮮(すくな)し。またなんぞ能(よ)くその蘊(うん)を窮(きわ)めて、その名を成すことを得んや。後(こう)世(せい)官(かん)家(か)寥(りよう)寥(りよう)乎(や)として、奇才を出すなく、而(しか)して素(そ)餐(さん)多きに居(お)るは、職としてこれに由(よ)るなり。且(か)つや技(ぎ)藝(げい)の嗜(し)好(こう)あるは、ただに酒(しゆ)色(しよく)の如(ごと)くなるのみならず。則(すなわ)ち布(ふ)衣(い)韋(ゐ)帯(たい)の士、産を破(やぶ)りて屠(と)龍(りよう)の術を學び、身を殺して彫(ちよう)蟲(ちゆう)の事を習ふ者、宇宙の間に比(ひ)肩(けん)接(せつ)踵(しよう)す。則(すなわ)ちその今日(こんにち)にありて、蓽(ひつ)門(もん)圭(けい)竇(とう)、寧(いづく)んぞ俶(てき)儻(とう)豪(ごう)邁(まい)の才なからんや。しかもただこれ冀(き)北(ほく)の群(むれ)、未(いま)だ曾(か)って伯(はく)樂(らく)の一顧(いつこ)に遇(あ)はざれば、則(すなわ)ち慷(こう)慨(がい)非(ひ)歌(か)、徒(いたずら)に岩(がん)穴(けつ)草(そう)莽(もう)の中に憤死する者、また幾(いく)許(ばく)人(ひと)ぞや。昔(むかし)燕(えん)王(おう)は、郭(かく)隗(かい)の言を聴き、而(しか)して能(よ)く駿(しゆん)骨(こつ)の千金に値(あたい)するを信じたれば、則(すなわ)ち天下の賢(けん)士(し)、その徴(めし)に應(おう)ぜざる者なし。見るべし、賢を好むの至(し)験(けん)は、影響よりも疾(はや)きを。今の時と雖(いえど)も、苟(いやしく)も能(よ)くこれを好むこと燕(えん)王(おう)の如(ごと)き者あらば、士また豈(あ)にその門を造(いた)るを願はざらんや。ただそれ科(か)挙(きよ)の法なく、能(のう)者(しや)をして屈して伸びず、不能者をして強ひて欲せざるの事をなさしめ、而(しか)して責むるにその人なきを以(もつ)てするは何ぞや。これただに國家に益なき者を揚げて、天下に用ある者を抑(おさ)ふるのみ。なんぞ以(もつ)て士を勧(すす)むるの道となさん、またなんぞ以(もつ)て民(たみ)を安(やす)んずるの道となさんや。
末世(今の世の中)は残念ながらそうではない。大体において、一つの才能や技芸に秀でている人が、運良く抜擢任用されてある仕事や役職を得れば、それ以降は、能力があろうがなかろうが、その子孫が代々その仕事や役職を継承することが多い。やがて、その仕事や役職は家業となり、子孫が継承を止めようとしても、認められない。渋々、家業を引き継いでも、ストレスに押し潰される人が少なくない。
また、渋々、家業を引き継いだ人が、奥深い仕事をして、評判になることがあり得ようか。後世において、世間から冷たい目で見られ、まことに寂しい思いをするであろう。その仕事において代々才能がある人材を輩出することがなくても、その仕事や役職を続けて高い報酬を得られるのは、家業として引き継いだからである。
しかも、技芸に関する嗜好と云うのは、酒や女で身を持ち崩すように堕落するだけではない。すなわち、「身分低く貧しい人(注)」が、本業を疎かにして「屠(と)龍(りゆう)の術(竜をほふり殺す術・注)」のように「すぐれた技術だが、実用にはならない無用の技芸(注)」を学んでいる。また、健康を害してまで「彫蟲(ちようちゆう)の事(小さな虫に彫刻する術・注)・屠(と)龍(りよう)の術と同じく、すぐれた技術だが、実用にはならない無用の技芸・注」を習う人は、宇宙空間に匹敵するほど、うようよ存在している。
すなわち、今日(こんにち)にあっては、「貧者の住宅(注)」に居住している人が、才気が高くすぐれており、独立して拘束されないような豪快な才能を有していないと言い切れるだろうか。たとえ毛並みの良い馬の群れでも、伯(はく)樂(らく)(馬の良否を見分ける名人)が存在しなければ、社会に埋もれてしまい、自分の不運を憤(いきどお)り嘆くしかないのである。どんなに才能があっても、その才能を見抜き、また任用してくれる人がいなければ、例えれば、徒(いたずら)に洞窟の中で一生、埋もれて世に出ることができない。そのように不遇な人が、どのくらい存在したであろうか。
昔の故事「燕(えん)の昭(しよう)王(おう)が賢才を求めるについて家来の郭(かく)隗(かい)に相談したところ、隗(かい)が、むかし死んだ馬の骨さえ五百両も出して買って来た人がある。千里を走る名馬(賢才)を得たいと思うなら、まずかく申す私(隗(かい))から大いに優遇しなさい、そうしたならば私より優れた人材はどしどしわが燕の国にやってくるでしょうと進言した(戦国、燕策)・注/先ず隗より始めよの故事」を参考にすべきである。権力者が賢人を好むことは歴史的に証明されている。今の時代であろうとも、権力者が燕(えん)の昭(しよう)王(おう)のようであれば、賢人が願い出て権力者に仕えようとするであろう。
しかし、わが国は中国の科挙(官吏の登用試験・注)の制度を取り入れなかった。だから、能力のある人が能力を仕事で生かすことができず、能力のない人が継ぎたくもない役職や家業を継ぐことになり、仕事の質が段々低下していったのである。仕事の質が低いことを責めても、仕事に携わっている人の能力には言及しないのはどうしてだろう。役職や家業を引き継ぐ制度の欠点は、天下国家に貢献しない能力が低い人を登用し、天下国家に貢献する能力が高い人を登用しないことにある。
このようなことで、どうして賢才を育てることができようか、どうして民を安んずることができようか。