郷(きよう)党(とう)篇第十
郷党篇は論語各篇の中で、ちょっと趣が異なる。どのように異なるのか、貝塚茂樹著「論語」から引用する。
『論語』は孔子の言行の記録であるが、孔子のことばや弟子たちとの会話がおもな部分をなしていて、孔子の行動についての記録は、あまり多くない。この郷党篇は、『論語』のなかでは例外で、孔子の行動の記録が主体となっている。行動といっても、郷党つまり都の近郊の郷里の、孔子の本宅における日常の生活ぶりを主とし、それに付随して朝廷における孔子の公的生活のありさまが記述されている。注釈家のなかには、この篇に収めた文章の主格が明示されていないので、かならずしも孔子個人の生活の仕方を記したものでなく、不定の主格のもとに、正しい例の作法を記したものにすぎないとみるものもある。孔子の學派たちの間に伝わった禮儀作法の伝承は、孔子の公私の生活のなかで孔子のとった行動を模範とし、源泉としたものである。主格が明示されていないとしても、孔子の生活ぶりと考えて、だいたい支障はないであろう。この篇に記された公私生活の行儀作法、伝統的な禮の規則は、それぞれの場合にふさわしく、調和するように、細かい配慮のもとに実践されている。衣服の配色などについても、細心の注意がはらわれている。生活は細部にいたるまで、非常に神経がゆきわたり、高度に洗練された趣味によって仕上げられている。こういう生活を実際に行うことができる人は、すぐれた芸術的感性に恵まれた孔子をおいては不可能であったと考えられる。
また、吉川幸次郎著「論語 上」には、この「郷党篇」について、次のように書いてある。
例によってはじめの二字をとって、篇名とするが、この内容は、これまでの諸篇とちがい、孔子が、その公的な生活、また私的な生活において、禮の規定、すなわち当時の意識における文化生活の様式を、どのように遵奉し、どのように解釈演繹して行動したかを、記す。つまり孔子の実践の記録である。あるいは徂徠のように、全部が孔子の実践でなく、一般的な禮の規定として説いた部分が、むしろ多いとする學者もある。要するに他の篇が、抽象的な教訓の言葉を中心とするのに対し、ぐっと実際的な行動の記録ないしは規定である。善意は単に精神として存在せず、日常の実践にも、調和を得た表現を得なければならぬという、孔子の態度を示す。なおこの特殊な篇がここに位することは、「論語」はさいしょここまでの十篇として結集されたとする説に、論拠を与える…。
郷党第十、第一章
孔子於郷党、恂恂如也。似不能言者。其在宗廟朝廷、便便言。唯謹爾。
孔子の郷党に於けるや、恂(じゆん)恂(じゆん)如(じよ)たり。言う能(あた)わざる者に似たり。其の宗廟朝廷に在るや、便(べん)便(べん)として言う。唯謹むのみ。
孔先生は、郷里におられるときは生真面目で、まるで、口もきけないようでした。宗廟や朝廷に出られると、はきはきとさわやかに発言されましたが、言葉や態度は十分慎まれました。2012
この章に出てくる重要な言葉(概念)
郷党:魯につかえて大夫となり、さらに大(だい)司(し)寇(こう)の職について、卿(けい)つまり大臣の一員となった孔子の本宅は、当時の曲(きよく)阜(ふ)の城外の闕(けつ)党(とう)にあった。現在の闕党はこの旧宅のあとにあたるとされている。曲阜近郊は三郷に区分され、士大夫つまり貴族階級はそこに住んでいた。郷は一万二千五百家、党は五百家からなっている。孔子は非番のとき、この郷党つまり近郊の居宅に帰って、近隣の村の寄合いなどに出席していた。
恂恂如たり:この語は恭(きよう)慎(しん)とも注されるが、むしろ口をもぐもぐさせてよくしゃべれない、実直ないなか者をさす。
朝廷:この時代の魯国のような都市国家の政治は、宮門外の外朝、宮門内の内朝などすべて門の内外の広場に貴族たちが参列して行われた。この毎朝開かれる野天の会議場が朝廷の原義である。
便便:弁舌にすぐれているさま。
(以上、貝塚茂樹著「論語」から)
☆貝塚茂樹著「論語」には、次のように書いてある。
孔子の言動を述べるため、まず非番で郊外の本宅に帰った孔子の、私人として近隣の人にたいする素朴で親しみやすい好々爺ぶりと、朝廷における公人としての孔子の活動的な態度とを対比させる。
☆吉川幸次郎著「論語 上」には、次のように書いてある。
郷といい党というのは、やかましくいえば地方組織の単位であって、五百軒の部落が「党」、また「党」が二十五よりあつまった一万二千五百軒が「郷」であると、「周(しゆう)禮(らい)」の「大司徒」などに見えるが、ここでは軽く、孔子が居住してその私的生活を営む地域、つまり町内というほどの意味である。孔子は当時すでに偉人と認められていたが、郷党すなわち町内の寄り合いに出ると、ちっともたかぶらず、恂(じゆん)恂(じゆん)如(じよ)としていた。恂恂は、古注に…「温恭の貌(かたち)、新注に「信実の貌」、また新出の鄭玄注には、「恭順の貌」という。そうして弁舌がまわらぬような者のようにさえ見えた。ところが宗廟、すなわち君主が先祖の祭をする霊(たま)屋(や)、そこで祭祀があるとき、君主の介添えをするのが、当時の重臣の重要な任務の一つであったが、かく宗廟のなか、また朝廷、すなわち、君主が政務を執行する場所、そうして孔子が重臣の一人として論議にあずかる場所、この二つのところでは、「便便として言う」、てきぱきと、ものをいった。且つそのてきぱきとした言語は、一面では、唯(ひと)えに謹厳であり、慎重であった。「爾(じ)」の字は句末の助字、リズムを強める。孔子は五十代の中ごろ、魯の内閣の一員であった。