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人生を豊かにする論語意訳 抜粋 その九

子(し)罕(かん)篇第九

子罕第九、第一章
子罕言、利與命與仁。あるいは、子罕言利。與命。與仁。
子罕(まれ)に言う、利と命と仁と。あるいは、
子、罕に利を言う、命と與(とも)にし、仁と與にす。
 孔先生は、利益と天命と仁の概念について、ほとんど説明されなかった。
 あるいは、
 孔先生が稀に利益に関する話をされるときは、天命や仁という概念に関連付けて説明されていた。20111220

☆貝塚茂樹著「論語」には、次のように書いてある。
 このことばについては、ここでは徂徠の読み方によったのであるが、一般には、「子は罕(まれ)に利と命と仁とを言う」、つまり「先生はめったに利益と運命と仁德とについて語られなかった」と読まれてきた。『論語』のなかで孔子が「利」について、「命」について語った例は、ともに六例しかない。だから利と命とをまれに語ったとはいっていいかもしれない。ところが『論語』のなかで孔子は仁について六十回以上も語っている。『論語』の注釈家はこの矛盾になやんだ。あるいは弟子たちは最高の理想である仁について、孔子にもっともっと語ってもらいたいと希望し、まれにしか語ってもらえないと感じ、まれに仁について語ったことばをたいせつに記憶していたので『論語』に残ったのだという解釈も行われている。ひとつの考え方としてはその可能性もみとめられるが、その解釈の成立する蓋(がい)然性はきわめてとぼしく、妥当な解釈とはいえない。これにたいしてここにとった徂徠の独創的な解釈は、はるかに説得的である。『論語』のなかで孔子が利を語った六例のうち、問題の子罕篇をのぞいた五例中、仁に関連して利をといた「知者は仁を利とす」(里仁篇第二章)のほか、仁義の義に関連してといた「君子は義に喩り、小人は利に喩る」(里仁篇第十六章)、「利を見ては義を思う」(憲問篇第十三章)がある。これにたいして、利だけ語った例は、「利に放りて行えば怨み多し」(里仁篇第十二章)、「小利を見ることなかれ。…小利を見れば則ち大事成らず」(子路篇第十七章)がある。前者は仁義を忘れて利にのみよった行動が怨みをまねくのであるから、ことばの上にはあらわれていないが、理論上は、仁義に関連して「利」に言及したのである。もっぱら「利」について説いたものは後の一例で、他の四例は仁義に関連させながら「利」をといたといえるであろう。そこで私は旧来の通説にたいしてあえて徂徠の説によることにした。
☆呉智英著「現代人の論語」には、次のように書いてある。
 先生は、利と命と仁についてはまれに話されるだけだった。
 この解釈が分かれるのは、「罕に」とあるのに、仁については論語の中に六十箇所ほど出てくるからである。これは、仁を軽々しく口にすることはなかったと解せばいいのだろう。残る利と命とは、確かにともに数箇所しか登場しない。利は、孔子にとって第一義的なものではなかったからである。それなら、命はどうか。おそらく、命が不可知だからであり、これを考究してゆけば煩瑣で抽象的な形而上學に陥ってしまうからだろう。孔子の原(プロト)儒教はこれを嫌った。公冶長篇第十三章に子貢の言葉として「先生が人(じん)性(せい)(人間の本性)と天道について話されるのを聞いたことがない」とあるのも、これと同じである。
 天命は考究不可能である。しかし、それでも天命を確信する。これが孔子の一貫した立場だった。

子罕第九、第二章
達巷党人曰、大哉孔子、博學而無所成名。子聞之謂門弟子曰、吾何執。執御乎、執射乎、吾執御矣。
達(たつ)巷(こう)党(とう)の人曰く、「大なる哉孔子、博く學んで名を成す所なし」。子、之を聞いて門弟子に謂いて曰く、「吾は何をか執(と)らん。御を執らんか、射を執らんか、吾は御を執らん」。
 達巷という村の者が孔子を皮肉って批評した。
「偉大な人だね、孔先生は。ひろく學んでいるからあらゆることに通じておられて、特定の分野の専門家としては全く名前を知られていないからねぇ」。
 孔先生はこの批評を伝え聞き、ユーモアを交えて弟子達に語った。
「(そうか、わたしは専門家としては全く名前を知られていないのだねぇ…。)わたしは何を専門とすればいいのかねぇ。御者にすべきか…、弓道家にすべきか…。わたしは御者になろうと思うが、諸君はどう思うかね」。20111221

この章に出てくる重要な言葉(概念)
達(たつ)巷(こう):党の名。党とは五百家の一団をいうのである。「達巷党の人」の姓名は伝わらない
射・御:禮楽射御書数を六(りく)藝(げい)という。射と御とはその中で卑しいもので、御はその中で最も卑しいのである
(以上、宇野哲人著「論語新釈」から)

☆貝塚茂樹著「論語」には、次のように書いてある。
 文・武の一芸に習熟して専門家として世に立とうとするのが、当時の風潮であった。これにたいして、専門にこだわらず、広い學問をならっていたところに、孔子の偉大さをみとめた達巷党人は、若いのになかなかの人物であったといえよう。この理解者の出現は、孔子にとってよほどうれしかったにちがいない。そこで何を専門にしようか、御者かな、射手かななどと冗談をいったのがこの文章である。孔子は、とかく苦虫をかみつぶしたような人柄だと想像されてきた。しかし、孔子は機嫌がいいときにはこんな軽口をいいかねない、ユーモアに富む人であった。