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天命に生きる日本の教え講座 安岡正篤「人生手帖」に学ぶ

五月十一日の言葉 喜怒哀楽を学ぶ

よく人は学問とか修業とかいう事を間違って、喜怒哀楽をしなくなることだと誤解するが、決してそうではない。それでは学問・修業というものは非人間的なものになってしまう。学問を為す要は、いかに喜び、いかに怒り、いかに哀しみ、いかに楽しむかというところにある。(以上、安岡正篤一日一言から)

何気ない言葉のようですが、実に奥深い、考えさせられる言葉であります。学問・修業を積んで人間が練れてくると喜怒哀楽をしなくなるのではなく、喜怒哀楽を制御できるようになるのです。喜怒哀楽がなくなってしまったのでは、安岡先生がおっしゃるように人間らしさがなくなる、すなわち非人間的なものになってしまいます。いかに喜び、いかに怒り、いかに悲しみ、いかに楽しむかというのは、感情の赴くままに喜怒哀楽することではなく、いかに喜びを制御し、いかに怒りを制御し、いかに悲しみを制御し、いかに楽しみを制御するか、ということだと思います。
このあたりの考え方は、仏教と儒教とでは、やや異なるところでありまして、仏教では完全に喜怒哀楽を超越することを目指す。すなわち、人間の分別を超えた天の道にそって生きようとするのに対して、儒教では喜怒哀楽を正しく行う。すなわち、人間としてこうあるべきという人の道にそって生きようとします。これを孔子は、論語で次のように言っておられます。
或る人曰く、徳を以て怨(うらみ)に報(むく)いば何如(いかん)。子曰わく、何を以てか徳に報いん。直(なお)きを以て怨に報い、徳を以て徳に報いん。
ある人が孔先生に言いました。「人から買った怨みに対しても、怨みで返すことなく、道徳的に対処するというやり方はどんなものでしょうか」。孔先生が言われました。「それでは、非道徳的な行いに対しても道徳的な行いに対しても同じように対処することになってしまうではないか。そうではなくて、怨みには正しさで対処するのじゃ。そして、道徳的な行いには、道徳で対処するのじゃ」。
この孔子の言葉は、お釈迦さまの言葉とは異なります。お釈迦さまは、どんなことがあっても怒ってはいけない、とおっしゃっています。つまり、怨みに正しさで対処するのではなく、怨みをそのまま受け入れる。怨まれているという事は認識するが、それに対処せずに、そのまま受け取る。これが仏教的な考え方です。それに対して孔子は、怨みには正しさで対処する、と言っておられるのです。
この仏教と儒教の考え方の違いと、「いかに喜怒哀楽するか」をどう捉えるかは、実に難しいところでありまして、仏教的に考えると、いかに喜怒哀楽を受け入れるかということになりますが、儒教的に考えると、いかに人間として正しく喜怒哀楽するかということになります。現実社会を生きているわたし達にとっては、どちらかというと儒教的な考え方が受け容れ易いかと思いますが、わたしとしては究極的には仏教的な境地に至りたいと思うところもあります。
いかに喜び、いかに怒り、いかに哀しみ、いかに楽しむか…。実に奥深い言葉です。

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