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天命に生きる日本の教え講座 安岡正篤「人生手帖」に学ぶ

五月十日の言葉 三日書を読まざれば②

本当の学問というものは、血となって身体中を循環し、人体・人格をつくる。したがって、それを怠れば自から面相・言語も卑しくなってくる。それが本当の学問であり、東洋哲学の醍醐味もまた、そういうところにあるわけであります。(以上、安岡正篤一日一言から)

これはもう、おっしゃるとおりです。本当の意味での学問を怠ると、面相・言語が卑しくなってくる。ですから人間を見抜くのは簡単なことでして、その人の表情やしぐさ、言葉を見れば、人物の如何がすぐにわかってしまう。これは恐ろしいことですが、それを見抜く人がめったにいないので、わたし達は恥ずかしげもなく、この面を下げて街を歩くことができるわけです。もし見る人が見たら、馬鹿丸出しの面を下げて、四方に「わたしはこのような馬鹿です」と宣伝しているようなものです。この場合の馬鹿というのは、人間としてなっていない、ということでして、知識があるとか、社会的地位が高いとか、そういうこととは一切関係ない人間としての熟度が低いということです。
論語に次の言葉があります。
「子曰わく、其の以(な)す所を視、其の由る所を観、其の安んずる所を察(み)れば、人焉(いずく)んぞかくさんや。人焉んぞかくさんや」。
孔先生がおっしゃった。「その人がやっておることを表面的に視れば、善い事をしておるか、そうでないかがすぐにわかるのじゃよ。その人がやっておることが表面的に善い事であっても、それをやっておる動機をよく観れば、それが私利私欲に基づくものであるか、利他の精神でやっておるのかすぐにわかる。人の見ている所では善い事をするが、人が見ていない所では手を抜いておるようなら、私利私欲でやっておるのじゃ。善い事をして自分の評価を高めようという魂胆じゃよ。最後は、その行為を、勿論善い事をしているときの行為であるが、その時の面構えやしぐさ、言葉をよく観察すれば、その人が無理してその善行をしておるのか、自然にその善行をしておるのかがわかる。無理しているうちはまだまだ。自然に善行ができるようになってこそ、人格が練れてきたといえるのじゃよ」。
二千五百年前に孔子が残した言葉が、そのまま現代の人物鑑定法として使用できます。このように人間を追及するのが東洋哲学でありまして、学べば学ぶほど人間が練れてくるわけです。ただ知識だけを詰め込むような学問は学問とは言えません。単なる暗記です。機械にでも出来ることです。

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