第二章
聖人設卦觀象。繋辭焉而明吉凶。剛柔相推而生變化。
聖人、卦(か)を設けて象を観、辞を繋(か)けて吉凶を明らかにす。剛柔は相い推(お)して変化を生ず。
○易において聖人とは、伏(ふつ)羲(き)、文王、周公旦を指す。まず、今から凡そ五千年前、半神半人の伏羲が天地宇宙の根源的なエネルギー(元氣)を太極と名付けた。そして、太極の中に混在している陽と陰を結合させて四象・八卦と展開させ、さらに八卦と八卦を重ねて六十四卦に発展させた。
次に、今から凡そ三千年前、殷王朝の末期、周の王さま文王が殷王朝最後の皇帝である暗君紂王に羑(ゆう)理(り)に幽閉されていた時、六十四卦の象をじっくり観察して卦辞・彖辞を創作した。
最後に、文王の長男である武王が立ち上げた周王朝の初代首相を務めた武王の弟周公旦が六十四卦一つひとつの爻の象をじっくりと観察して爻辞を創作した。このようにして、六十四卦における吉凶悔吝の原理原則が明らかに定まったのである。
剛の陽爻と柔の陰爻はお互いに相い交わって、剛の陽爻は柔の陰爻に、柔の陰爻は剛の陽爻に変化して、乾・坤から始まり、屯・蒙…未済、そしてまた乾・坤へと循環し、次から次へと時が変化するのである。
是故吉凶者。失得之象也。悔吝者。憂虞之象也。變化者。進退之象也。剛柔者。晝夜之象也。六爻之動。三極之道也。
是(こ)の故に吉凶とは失得の象也。悔(か)吝(いりん)とは憂(かい)虞(りん)の象也。変化とは進退の象也。剛柔とは昼夜の象也。六爻の動きは、三極の道也。
○以上のようであるから、吉凶とは「天地人の道に適っている(道を得ている)」か「天地人の道に背いている(道を失っている)」かの判断の言葉である。
悔吝とは「自分が犯した過失を後悔・反省して、改善することによって物事を善い方向に前進させる」こと、すなわち「今の善くない状態を憂いて、善い方向に前進しようと心配する」か、「自分が犯した過失を後悔・反省することを怠って、物事を悪い方向に後退させる」こと、すなわち、「今の善くない状態を放置して怠惰になって、知らず知らずのうちに悪い方向に陥っていく」かの判断の言葉である。
卦爻が変化するとは、陰爻が陽爻に変化して前に進んでいくことや、陽爻が陰爻に変化して後ろに退いていくことを象徴しているのである。
剛(陽)は昼の象徴であり、柔(陰)は夜の象徴である。六十四卦において初爻から上爻へと六爻が変化するのは、わたしたちが天地人三才の道を歩んでいくことである。
是故君子所居而安者。易之序也。所樂而玩者。爻之辭也。是故君子居則觀其象而玩其辭。動則觀其變而玩其占。是以自天祐之。吉无不利。
是(こ)の故に君子の居りて安んずる所のものは、易の序也。楽しんで玩(もてあそ)ぶ所のものは、爻の辞也。是の故に君子は居れば其の象を玩び其の辞を玩び、動けば其の変を観て其の占(せん)を玩ぶ。是を以て天より之を祐(たす)け、吉にして利ろしからざる无(な)し。
○それゆえ、易を学ぶ君子(天命を知ることによって世のため人のために生きようと努力している人)が自分の居場所(持ち場)で安心して活動していけるのは、易経に示されているあらゆる事象の原理原則に従っているからである。
また、易経を楽しんで学び行動に活かしていく(知行合一的に活用する)ためには、卦辞・彖辞や爻辞をしっかり読み込むことが大切である。
それゆえ、易を学ぶ君子は、何事もなく時が流れる平常時には易経の卦象をじっくりと観察して、卦辞・彖辞と爻辞をじっくり読むことによって、あらゆる事象に対処する。行動しなければならない時は、易経の卦爻の変化(本卦と之卦・綜卦・互卦・錯卦など)をじっくりと観察して、吉凶悔吝の行方を前知するのである。
以上のように、易を学ぶ君子は、卦象をじっくり観察し、卦辞・彖辞をじっくりと読み込んでいるから、天の道を真っ直ぐに歩み、神仏も応援してくれる。それゆえ、何事も宜しく事が運ぶのである。