おそらく囚人の誰かが遺棄したものであろう。世の中には易経を講じる儒学者が数千人もいるが、本当に理解できている者はわずか数人しかいない。しかもその解釈はどれも不十分であった。しかし、この書を読んで初めて真の易の教えに触れ、胸がすくような思いだった。 易経はアジアにおいては数千年来幾多の人に読まれており、飛び抜けて優れていると称される四人の聖人が、それぞれ天から授かった働きを極めて、高邁で理想的な力を尽くして書き上げた(編纂した)ものである。易経が理解しがたいのは昔から知られていることだが、かといって聖人がわざと難解な隠語を使って、怪しげで信じがたい書物を作り、後世の人々を困らせようとしたはずがない。後世の人々を諫めるために書いたのであろう。 このことによって易経を大局的に論ずれば、易経が難しいのは本が難しいからではなく、わたしの思考力が拙いから難しく感じるのである。今は牢獄の窓の近くで気分が晴れない状況にあるが、幸いにも耳にした西洋の科学とあわせて研究すれば、易は解読が難しいとはいえ、あるいはその真理に通じることができるのではないか。
白倉信司. 明治十九年出版 高島易斷 卷第一 現代語訳 (pp.12-13). Kindle 版.
