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天命に生きる日本の教え講座 安岡正篤「人生手帖」に学ぶ

五月八日の言葉 器量と辞令

「あれは器量人だ」という言葉が通俗用語になっておりますが、これは人間の具体的存在を器という字で表現しているもので、人間の大きさ、深さを量る言葉として用いている言葉であります。
あれは頭が良い、よく出来る。けれども人を容れない。人を用いる量がない。深みがないなどといわれる人があります。度量、器量ということが良く考えられなければならないわけです。
もう一つ人物の応対辞令という言葉がありますが、応対というのは、いろいろな問題に応じてきびきびと処理してゆくことであり、辞令とは事に対して自分の考えを適確に表現してゆくことです。
この応対辞令は大変大事でありますが、俄か仕立てではどうにもなりません。結局平素の修業に俟つほかはないのであります。(以上、安岡正篤一日一言から)

器量が大きい人には、そう簡単に成れるものではありません。前にも書きましたが、この世は「元氣」という「氣」が形として現れたものでして、これをお釈迦さまは「空即是色」と表現されております。わたし達人間だけが、その「氣」を自分の意志で制御することができるのであり、それを俗に「氣持」と言っております。何事も「氣の持ち様」でして、「氣持」が良好の時には「天にも上る氣分」にもなりますが、反対にそれが悪化した時には「地獄に落ちたような氣分」にもなります。それを仏教では六道と言いまして、人間の「氣持」というのは、「天上、人間、修羅、畜生、餓鬼、地獄」という六つの世界を輪廻しており、なかなか安定しません。不安定なのであります。
器量が大きい人は、不安定な「氣持」をある自分で制御して安定させることが出来る人でありまして、普通の人、すなわち器量が小さい人が、しょっちゅう「畜生、餓鬼、地獄」という世界に精神的に陥りもがき苦しむのに対して、常に「天上、人間」という世界に止まることができて、時に「修羅」の世界に陥ることがあっても、それを真正面から受け止め、対処して、自分の「氣持」を制御することにより精神状態を「人間」の世界にまで高めることができる人を言います。
器量が大きい人には、そう簡単に成れるものではない、といいますのは、そういうことです。しかし、人間として生まれてきたからには器量の大きい人に成りたいものです。
では、どうすれば器量の大きい人に成れるかといいますと、そのままでは不安定な「元氣」を自分の意志で安定させることであります。そのためには、どうすればいいかといいますと、まず、第一段階として、「元氣」を「意氣」に昇華させることです。「元氣」を「意氣」に昇華させるためには、「自分の夢」を描くことです。それも自分の手にすることができる夢です。とても手に入りそうにない過大な夢を描くと、それを実現することができずに挫折して、それこそ「夢も希望もない」世界、すなわち「畜生、餓鬼、地獄」という世界に突き落とされてしまいかねません。ですから実現可能な夢を描くのです。どんな夢でもかまいません。「お金をもうけて贅沢な生活をしたい」とか「企業を立ち上げて、その力で社会を支配したい」というような私利私欲に基づく夢でも結構です。そのような夢を実現させたのが、あの堀江さんという人です。それはそれでいいのだとわたしは思っています。しかし、この段階で止まっている人は「器量が大きな人」にはなれません。「器量が大きな人」に成るためには、私利私欲に基づく「夢」では駄目なのです。
そこで、第二段階として、「意氣」を「志氣」に昇華させることが必要となります。「意氣」と「志氣」の違いは、「意氣」が私利私欲に基づく夢を描くのに対して、「志氣」は私利私欲を超えた、すなわち己の利益ではなく、他人の利益、社会の利益のためになる夢を描くことであります。これもまた実現可能な夢でなくてはなりません。例えば、「この世から戦争をなくしてみせる」というような志は、それはそれで大変に立派ではありますけれども、人類の歴史を見ますと、とても自分一代でできることではない。それこそ、何百年、あるいは何千年かけて取り組まなければならない大きな課題であります。ですから「この世から戦争をなくしてみせる」ということではなく、「この世から戦争をなくすための礎になる」という志でなければならない。それなら実現可能であると思うからです。しかし、あえてそんなに大きな志を描かなくてもいいのです。「周りの人から感謝される人になる」という志で十分ですし、そのような志こそ人間として描くべきだと考えます。つまり、「何を為すか」ではなく、「何であるか」を目指すということです。もちろん、「何を為すか」は大切です。これがなければ「氣持」を奮い立たせることは難しい、ことも事実だと思います。しかし、「何を為すか」で終わってしまってはいけない。あの人はたしかに立派な事業をしたけれども、家族や友人からは嫌われていた、という人間では駄目なのです。
これは自分に対する反省でもあります。「何を為すか」というのはやろうと思えばできることです。必ずできる。しかし、「何であるか」とさて、「意氣」を「志氣」に昇華させて、修養を積み上げて参りますると、「志氣」はやがて「志節」あるいは「氣節」というものに高まります。志が節となり、不安定であった「氣」が「節」というしっかりした形のあるものに成るのです。勿論目に見えるわけではありませんが、心の中にしっかりとしたものが鎮座するようになる。自分というものが確かになる。心の器が大きくなるのです。
そしてやがて「志節」や「氣節」は、「器量」や「度量」に昇華される。この段階に達してようやく「器量の大きな人」と言われるようになるのです。
ですから、器量が大きい人には、そう簡単に成れるものではありません…。いうのは、これは実に難しい…。

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