安岡正篤一日一言を読み解く
四月二十八日の言葉 真理は内在する
陽明は石槨(せっかく)を為(つく)り自ら誓って曰く、吾今惟(た)だ命(死)を俟(ま)つのみと。一夜霊感あり、夢幻の間に人あって語る如く、多年の疑問氷解し、大声を発し、躍り上がって狂人の如くであった。
彼は始めて真理は我が外に在るものではなく、内在するもの(良知)であり、我を舎(お)いていたずらに理を事物に求むることの誤りを悟ったのである。根本義に於(おい)て彼は始めて人間の生に徹したのである。
この体験は主観にしても客観にしても単なる知性では到達出来ない。全生命を賭けて始めて得ることの出来る体験である。
そしてこれはひとり東洋学道だけのものではない。今世紀の偉人シュバイツアーの生の大悟(たいご)にこれをみる。仏領アフリカのランバレネの上流イジェンジャ村で豁然(かつぜん)として「生を貴ぶことが善の根本たる」悟りを得たという。(以上、安岡正篤一日一言から)
「真理は我が外に在るものではなく、内在するもの(良知)であり、我を舎(お)いていたずらに理を事物に求むることの誤りを悟った」というのは、どういうことかを、吉田公平著「伝習録-陽明学の真髄」(タチバナ教養文庫)」から引用します。
○良知実現の喜び
先生がいわれた、「良知とは万物を万物たらしめる精霊(スピリット)である。この精霊あればこそ、天が生じ地が生じ、鬼神が生まれ天帝が生まれるのだ。つまり、あらゆる存在が良知に意味づけられてそれとなるのである。真に『一般的存在とは比較を絶したもの』(程明道・『識仁篇』)なのだ。人々がもしこの良知を回復して本性を実現したならば、文字通り完全無欠になるわけだから、もちろん『おもわず手を舞い足を踏みならすほどに喜悦にひたることでしょう』(『礼記』楽記篇)。いったい、この世界にこれに代わるほどの喜悦があるだろうか」と。
これは極めて仏教に近い概念だと思います。良知を仏または法と、本性を仏性と読み替えればそのまま仏教の言葉になります。
「仏とは万物を万物たらしめる精霊である。この精霊すなわち仏があればこそ、天地が生じる。つまり、あらゆる存在が仏に意味づけられている。人々がもしこの仏を回復して仏性を実現したならば、すなわち見性したならば、完全無欠になるのだから、これほどの喜悦があるだろうか」。
どうでしょう。仏教そのものではありませんか。
