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山縣大弐著 柳子新論 川浦玄智訳注 現代語訳 その二八

守業第十
【この篇、国民はみなその土に安んじ世業を楽しむというのでなければならない。しかるに世を挙げて生産にかんけいのない虚業を営み、農民までが田畑をすてて都市に流れ、末利を逐う生活に堕している。このようなことでは、一(いっ)旦(たん)不(ふ)測(そく)の変事でも起こったならばどうなるであろうかと憂えた。(注)】

 柳(りゆう)子(し)いはく、それ民(たみ)の業(ぎよう)に居(お)るや、父(ふ)子(し)相(あい)承(う)け、世(よ)世(よ)變(へん)ぜず。各(おの)〃(おの)その土(とち)に安んじ、各(おの)〃(おの)その事(こと)を治(おさ)むるは、先(せん)王(おう)の治(おさむる)なり。ここを以(もつ)て上(じよう)古(こ)の民(たみ)は、能(よ)くその道を知って、その業(ぎよう)に力(はげ)む。食はこれを以(もつ)て足り、器(き)はこれを以(もつ)て堅く、財はこれを以(もつ)て通ず。これを用ふる者損なく、これをなす者乏しからず。季(き)世(せい)は則(すなわ)ちしからず。士(し)の禄(ろく)は農の利に如(し)かず、農の利は工商の富に如(し)かず。工商は巫(ふ)醫(い)に如(し)かず、巫(ふ)醫(い)は浮(ふ)屠(と)に如(し)かず。而(しか)して俳(はい)優(ゆう)倡(しよう)伎(ぎ)は、別に一(いち)封(ほう)疆(きよう)を得、幾(き)何(か)外(げ)道(どう)は、更に一(いち)乾(けん)坤(こん)を開く。即(すなわ)ち汲(きゆう)汲(きゆう)乎(こ)たる、孰(た)れか能(よ)くその業(ぎよう)を修め、その事を守る者あらんや。利を逐(お)うて走り、欲に随(したが)って變(へん)ず。昨(きのう)は耒(らい)耜(し)を荷(にな)ひ、今は則(すなわ)ち販(はん)鬻(いく)。朝に罏(ろ)罇(そん)を執(と)り、夕(ゆうべ)には則(すなわ)ち呪(じゆ)詛(そ)。鶡(かつ)冠(かん)の士、忽(たちま)ち倡(しよう)優(ゆう)の態(たい)を羨(うらや)み、息(そく)心(しん)の侶(りよ)、或(あるい)は耶(や)蘇(そ)の教(おしえ)を奉(ほう)ず。彼(か)のその庸(よう)夫(ふ)、固(もと)より是(ぜ)非(ひ)の辨(べん)を知らず。またなんぞその邪(じや)正(せい)を問(と)ふに遑(いとま)あらんや。此(ここ)に居(お)れば則(すなわ)ち危(あやう)く、彼(か)に入(い)れば則(すなわ)ち安(やす)し。此(ここ)をなせば則(すなわ)ち窮(きゆう)し、彼(か)をなせば則(すなわ)ち達(たつ)す。

 大(だい)貳(に)先生(柳(りゅう)子(し))は次のようにおっしゃった。
 民衆における家業のあり方は、父から子へと代々受け継がれて、何代も同じ家業を営み続ける。先祖代々引き継がれた土地に安んじて住み続け、家業を営み続けることができるのは、歴代天皇が民を大御宝として慈しみの統治をなさったからである。それゆえ、大昔の民衆は、それぞれ自分の役割分担を心得ており、家業に誇りを持って真摯に取り組んだ。家業を大切に守り続けることで、食べるものに事欠くことなく、衣料も住居も足りていた。経済的にも安定しており、ほとんどの民が幸せに暮らしていた。
しかし、今の世は、まるで末世(季世)が到来したような有様である。
 武士の俸禄は農家の収入よりも少なく、農家の収入は職人や商人が得る富よりも少ない。職人や商人が得る富は、易者や医者の収入よりも少なく、易者や医者の収入は僧侶の収入よりも少ない。さらにまた、俳優や遊女は「別世界に住んで(注)」おり、蘭学など外国の学問を学んだ者やキリスト教など外国の宗教の信者は、天地をも震撼させる収入を得ている。今の世は、以上のように利益を追い求めて汲汲としている輩(やから)が跋扈しているので、誰も本業を全うしようとは思わない。みんな、自分の利益を追いかけて走り回り、欲望に振り回されて堕落している。
 昨日は、農機具を手にして農業に携わっていた人が、今日は、商人として商品を販売している。また、朝から大酒を飲み、夕方は宿敵に呪(のろ)いをかける人もいる。「山鳥の羽で飾ったかんむりをつけた武士(注)」は、役者や芸人の演技に誑(たぶら)かされて武士としての矜持を失っている。「仏教の僧侶(注)」でありながら、キリスト教の教えを奉ずる輩(やから)もいる。
 以上のような凡夫(凡庸な人)は、物事を是非善悪で判断することの大切さが全く分かっていない。このような凡夫に、その行いの邪正を問いただしてもどうにもならない。あなたがこのような凡夫と一緒に悪事に手を染めれば、忽ち危険が身に迫る。あなたがこのような凡夫とは距離を置いて、物事を是非善悪で判断して正しい道を歩めば、安定した生活を営むことができる。あなたが凡夫に惑わされて悪事に手を染めれば、あっという間に物事に窮するようになる。あなたが凡夫に惑わされず是非善悪で判断して正しい道を歩めば、物事を成就することができる。