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天命に生きる日本の教え講座 安岡正篤「人生手帖」に学ぶ

安岡正篤一日一言を読み解く

四月二十四日の言葉 学問の四焉

学問には四焉(えん)の境地がある。
第一が修焉、之を修め、次に焉(これ)を蔵し、次の次に息焉、漢字の先生は之に「いこい」之に「やすみ」というふうに、学問研究の中に、ゆっくりと焦らず入ることと説きますが、私はこれをその通り息(イキ)と解してよいと思うんです。之に息するとは、学問を人間の呼吸と同じようにするという意味です。
我々の息が健全であるように、学問も自然に乱れないことです。
最後は遊でありますが、漢民族の歴史は黄河の水をどう治めるかに終始しますが、その結論は、水の流れに下手に逆らわないで、ゆったりと遊ばせる優遊の境に到ったわけです。人間も気まま、わがままにゆき乍(なが)ら、矩(のり)を超えざる境地に到ることを理想としたのです。(以上、安岡正篤一日一言から)

之を修め(修養し)、蔵し(知識を蓄え見識に高め)、息して(自分のものとして身に付け)、遊ぶ(余裕を持つ)。これは、学問だけでなく、何事にも当て嵌まる原理・原則。人間が生きていくということを考えても、この四焉の段階を経て人間性が磨かれていくように思います。
まず、修める(修養する)。何事をやるにも、自分で考えただけでは通用いたしません。学ぶに如かざるなり、でありまして、その分野・領域に関する知識を習得しなければ話になりません。そしてそれを蔵する(知識を見識に高める)のです。ただ知識を習得しただけでは機械と変わりません。人間インプットしたら、アウトプットしなければ、何のための知識であるか、ということを、しっかりと知っていなければいけません。知識を行為・行動に反映させるのです。それにより、知識は見識に高まり、その人の地となり肉となるわけです。しかし、そのことが、わかっていない人が実に多い。ただ知っているだけ、知っていることで、よしとしてしまっている人が実に多いように思います。知っているだけでは何も変わりません。知っていることを実践してこそ人間として磨かれるのです。蔵することができたなら、次は息するように自分のものとして身に付ける。この息するようにというのが、とても難しい。わたしたちは、息をするということを意識しておりません。無意識で息をして生きているわけです。修め蔵した(学んで見識にまで高めた)ことを息をするように無意識で実践できるところまで昇華する。これが息焉です。これは難しい。なかなか出来ることではありません。

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