五月九日の言葉 三日書を読まざれば①
黄山谷(こうざんこく)に次のような名高い語があります。
「士大夫三日書を読まざれば則ち理義胸中に交わらず。便(すなわ)ち覚ゆ、面目・憎むべく語言・味なきを」
書は聖賢の書。理義は義理も同じで、理は事物の法則、義は行為を決定する道徳的法則であります。大丈夫たるものは三日聖賢の書を読まないと、本当の人間学的意味における哲理・哲学が身体に血となり肉となって循環しないから、面相が下品になって嫌になる、物を言っても言語が卑しくなったような気がする……というのであります。(以上、安岡正篤一日一言から)
最近五年くらいは書を読まない日はほとんどありませんが、五年前に読んでいた書が全て聖賢の書かというと、ちょっと自信がありません。しかし、三、四年前から古典を読むようになってからは、ほぼ毎日聖賢の書に目を通しておりますので、今では合格点をつけてもいいでしょう。
聖賢の書の最初は仏教から入りました。まずはとっつき易いという理由で瀬戸内寂聴さんの本から読み始めました。そして段々専門的な本を読むようになり、今、山川宗元老大師の「無門関の教え」を読んでいるところです。日曜坐禅会に参加して三年ちょっと、ほとんど休んでおりませんし、数ヶ月とはいえ参禅の経験もあります。また、「しにかた塾(禅的に生きる)」で仏教、禅の教えを説いておりますので、それなりに仏教、禅については理解しているものと自負しても許されるでしょう。
この二年は「論語」と安岡先生の著作を中心に儒教について学んでおり、HPで毎日「論語の解釈」について「論語に学ぶ」「孔子の弟子たち」「論語意訳」という三つのシリーズで書いて参りました。また、「読書塾(論語に学ぶ)」、「論語塾」、「生き方塾(安岡正篤一日一言)」を通して、儒教の教を禅とからめて説いておりますので、それなりに理解できていると、こちらも自負しても許されるでしょう。
また、最近は仕事においても「論語」や「安岡先生の教え」を直接お話しすることが多くなりまして、ある企業さんでは早朝六時過ぎから二時間、「論語」と「安岡正篤一日一言」をテキストにした勉強会を一年近く継続して実施しております。これはしばらく続くものと思われます。また、一月ほど前には、ある経営者団体の依頼で「論語に学ぶ経営」という講演を行いましたし、今月は公的団体に依頼されまして東京に出向いて「論語に学ぶできる人の育て方」という講演を行います。
日本の教育を再生すべく議論を重ねている教育再生会議の報告にも、古典や漢文を学ぶ時間をもっと増やすようにと提言されており、最近は、古典が見直されているように思います。
最近は、ほぼ毎朝、大学と論語を素読しておりまして、聖賢の書に接することの大切さを実感している次第であります。素読は実に善いです。声を出して読み上げることにより言葉の奥に潜んでいる息吹のようなものを引き出すことができるように思います。「三日聖賢の書を読まないと、本当の人間学的意味における哲理・哲学が身体に血となり肉となって循環しない」という言葉が何となくわかるようになってきたように思います。
これからも、毎日、聖賢の書を読んで、人間的意味における哲理・哲学が身体に血となり肉となって循環するように心掛けて参ります。しかし、本当に血となり肉となって循環するためには、読んでいるだけでは駄目で、具体的な行動として実践を重ねることが肝要でありますから、王陽明の「知行合一」という言葉を実践すべく毎日の生活・仕事に努めていく所存です。
