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人生を豊かにする論語意訳 抜粋 その十四

憲(けん)問(もん)篇第十四

憲問第十四、第一章
憲問恥。子曰、邦有道穀、邦無道穀、恥也。
憲、恥を問う。子曰く、邦に道有れば穀(こく)す。邦道無きに穀するは、恥也。
 憲(原憲・原思)が、「どんなことを恥じるべきか」と質問した。
 孔先生が言われた。
「国に道(德治)が行われている時には仕官して俸給を受け取るべきだが、国に道が行われていない時に俸給を受け取り、のうのうとしているのは、実に恥ずかしいことである」。2012

この章に出てくる重要な言葉(概念)
原思:年齢不詳、姓は原、名は憲、字は子(し)思(し)

☆呉智英著「現代人の論語」には、次のように書いてある。
 確かに、孔子の言う通りである。豊かであり地位が高いことは、別に恥じるべきことではない。「世間虚仮」(世俗の価値は虚ろである)とする仏教や、「地上に宝を貯えてはならない」(マタイ6-19)とするキリスト教と較べて、孔子の思想がきわめて現実主義的である一例だ。泰伯篇第十三章では「邦に道あるに、貧しくして且つ賤しきは恥なり。邦に道なきに、富て且つ貴きは恥なり」とも言っている。
 しかし、「邦に道ある」と「邦に道なき」は、何を以て判別するのか。もし「道ある」を無器用なまでに純粋に求めて行けば、最後まで「貧」「賤」でしかありえない。原憲は愚直にもそういう清貧に生きた。
 史記は、孔子の没後の話として、原憲の姿をこう伝える。孔子の没後、原憲は草深い沼のほとりに隠棲していた。衛国の宰相として活躍していた子貢が供の者を引き連れて原憲を訪ねると、原憲は粗末な身なりでこれを出迎えた。子貢はそれを見て「ずいぶんお病(やつ)れですなぁ」と言った。すると、原憲は答えた。「財産のない者が貧、道を學んで実行しない者が病(へい)。私はそう聞いています。私は貧ではあるが、病(へい)ではありません」。
 子貢は慚(は)じ入って不快げに立ち去り、生涯その失言を恥じていた、という。
 失言を恥じたのであり、宰相としての栄達自体を恥じたのではないところが、儒教の現実主義であろう。
 この章と次の章(一章と二章)はつながっているという説がある。その説に基づいて現代語訳すると次のようになる。
 憲、恥を問う。子曰く、邦に道あれば穀す。邦に道無くして穀するは、恥也。克・伐・怨・欲行われざる、以て仁と爲す可きか、と。子曰く、以て難しと爲す可し。仁は則ち吾知らざる也。
憲(原憲・原思)が、「どんなことを恥じるべきか」と質問した。
 孔先生が言われた。
「国に道が行われている(道德が尊ばれている)時には仕官して俸給を受け取るべきであるが、国に道が行われていない(道德が廃れている)時に仕官して俸給を受け取り、のうのうとしているようでは、実に恥ずかしいことであるなぁ」。
(憲が続けて質問した。)「人に勝とうとする心、自分を誇ろうとする心、人を怨む心、私利私欲を求める心を抑えて行ないを慎めば、仁の道(人の道)を歩んでいるといえるでしょうか」。
孔子先生が言われた。「それらを実行するのは難しいことであろう。だが、それらを実行したとしても、仁の道(人の道)を歩んいるかどうかは、わたしにはわからないなぁ」。

憲問第十四、第二章
克伐怨欲不行焉。可以爲仁矣。子曰、可以爲難矣。仁則吾不知也。
「克(こく)伐(ばつ)怨(えん)欲(よく)行われざる。以て仁と爲す可し」。子曰く、「以て難(かた)しと爲す可し。仁は則ち吾知らざる也」。
(憲が続けて質問した。)「勝とうとする心、誇ろうとする心、怨む心、私利私欲を抑えて行ないを慎めば、仁の道を歩んでいるといえるでしょうか」。
 孔先生が言われた。「それを実行するのは難しいことだ。だが、それを実行したとしても、仁の道を歩んいるかどうかは、わたしにはわからない…」。2012

この章に出てくる重要な言葉(概念)
克:他に勝つのを好むこと
伐:自らすぐれているとほこること
怨:忿り恨むこと
欲:貪って厭き足りないこと
(宇野哲人著「論語新釈」から)

☆吉川幸次郎著「論語 下」には、次のように書いてある。
 はじめの二句は、孔子以外の人の言葉である。古注では、まえの章とつづけて一章とし、原憲の問いのつづきとする。新注は独立した一章とするが、原憲の言葉とする点は、同じである。徂徠は、章のはじめに脱字があるとし、だれの言葉かわからないとする。
 何にしても、問いの言葉は、克、伐、怨、欲、この四つが、その人の行爲にない場合は、仁といってよろしいと思いますか、というのである。古注に引く…説に、克は「好んで人に勝つ」、伐は「自ずから其の功に伐(ほこ)る」、怨は「小さき怨みを忌む」、つまらぬことを根にもつ、欲は「貪欲」である。つまり強引、自慢、ひねくれ、欲ばり、みな狭量な心から生まれる四つの不道德である。新注も同じであるが、この四字の一つ一つが、しかく明確に独立した概念であるかどうかは、疑いを容れる余地がある。
 孔子の答え。それらの不道德がその行爲にないのは、むつかしいことだといっていい。しかし、それだけでは仁であるかどうか、私にはわからない。それだけでは仁でない、といおうとするのであり、それらの不道德がないという消極さだけでなく、もっと建設的な積極的なものがあってこそ仁だ、というのであろう。

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