天民第六
【この篇、農民の窮乏と武士(支配階級)の堕落と、富商の奢(しゃ)侈(し)僭(せん)越(えつ)とを論じて、富商の権を抑え生産をつかさどる農工業をこそ振興すべきであることを強調した。(注)】
古昔(いにしえのむかし)いはゆる天民(てんのたみ)なる者、その數(かず)四(よつつ)。いはく士、いはく農、いはく工、いはく商。士は善く官政に服し、以(もつ)て天下の義を勧(すす)め、農は善く稼(か)穯(しよく)を務め、以(もつ)て天下の食を足し、工は善く器物を制し、以(もつ)て天下の用を済(な)し、商は善く貿易を爲(な)し、以(もつ)て天下の財を通ず。この四者(よんしや)は、上(かみ)天(てん)職(しよく)を奉(ほう)じ、下(しも)人事を済(な)す。相愛(あいあい)し相(あい)養(やしな)ひ、相輔(あいたす)け相(あい)成(な)し、以(もつ)て一日も相(あい)なかる可(べ)からざる者なり。先王(せんおう)の民(たみ)を視(み)る、その子を視(み)るが如(ごと)く、民先王(たみせんおう)を視(み)る、その父母を視(み)るが如(ごと)し。父母善(よ)く子を教へ、子善(よ)く父母を養ひ、而(しか)して道その中に存(そん)す。ここを以(もつ)て上下和睦し、怨(えん)惡(お)あることなし。國(くに)以(もつ)て治(おさま)り、人以(もつ)て安(やす)し。猶(な)ほ且(か)つ憂慮(ゆうりよ)する所あり。官を立て職を命じ、禮樂(れいがく)以(もつ)てこれを導き、號(ごう)令(れい)以(もつ)てこれを教へ、秩祿(ちつろく)以てこれを富まし、爵(しやく)位(い)以(もつ)てこれを貴(たつと)くし、衣(い)冠(かん)以(もつ)てこれを文(かざ)り、干(かん)戈(か)以(もつ)てこれを威(い)し、これが才(さい)を量(はか)りて以(もつ)てこれが事(こと)を命じ、これを率(ひき)ゐるに義を以(もつ)てし、これを使ふに時を以(もつ)てす。賞(しよう)罰(ばつ)信あり、黜(ちゆつ)陟(ちよく)典(のり)あり。しかる後(のち)兆(ちよう)民(みん)これに懐(なつ)き、四(し)國(こく)これに化(か)す。この故(ゆえ)に士は、四(し)民(みん)に長として、天職を共にする者なり。君命(くんめい)を奉(ほう)じて、天下に令(れい)する者なり。仁義を行(おこな)ひて、庶政(しよせい)を輔(たす)くる者なり。忠信を體(たい)して、德教(とつきよう)を布(し)く者なり。
古(いにしえ)の天下の民とは、四種類の民を云う。(管(かん)子(し)・小(しよう)匡(きよう)篇(へん)に「士農工商の四民なる者は、国の石(せき)民(みん)〔国の柱(ちゆう)石(せき)となる民の意〕なり」とある。注)いわゆる士農工商の区分において、武士は役人として役所に仕え、大義に基づいて天下国家を導く。農民は農業を営んで天下国家のために食糧を生産する。職人(工)は器(き)物(ぶつ)などの製品を製造して天下国家に有用(ゆうよう)な物を提供する。商人は様々な製品を仕入れて販売し天下国家の流通に寄与する。
以上の四者(よんしや)は、上位の人は天職と心得て奉公し、下位の人は慎んで人事に順う。上下関係は愛(いつく)しみ合い、養い合う、相互補完関係であり、一日たりとも離れられない思いやりの溢(あふ)れる人間社会である。
大学に「楽しき君子(君主の意)は、民の父母と。民の好む所はこれを好み、民のにくむ所はこれをにくむ。これをこれ民の父母という。(注)/理想的な君主は、民衆にとって実の父母のような君主である。民衆が好むことを君主も好み、民衆が嫌がることは君主もまた嫌がる。このような君主であるから民衆は実の父母のように慕うのである」とあるが、先(せん)王(おう)(歴史に残る王さま)が民衆を見つめる視線は、まるで自分の子どもを見ているようであり、民衆が先王(せんおう)を見つめる視線は、まるで自分の父母を見ているようである。
父母はよく子どもたちを教育し、子どもたちはよく父母を養う。人の道は以上のような「忠孝」を基盤とする人間関係の中にある。「忠孝」を基盤とする人間関係が強固であるから、あらゆる上下関係(君臣・臣民・父母・兄弟等)が調和して、互いに怨(うら)み憎しみ合うことはない。
国はよく治まり、人々は安心して生活できる。それでもなお、心配事はなくならない。そこで、役職を作って職を与え、禮楽(れいがく)制度を普及して礼儀作法を教え導き、規則や命令を発して紀(き)律(りつ)を教える。役人には俸禄(ほうろく)を支給して豊かな暮らしを実現し、公人には爵(しやく)位(い)を与えて社会的地位を保証する。朝廷に仕えている高貴な人々は衣服と冠(かんむり)を着用して外観を整え、朝廷は武器や武力を具えて権威を保持する。適材適所に基づいて仕事を命じ、大義を立てて組織を動かし、時に応じて人を動かす。
信頼関係を基盤にして賞(しよう)罰(ばつ)が付与さる。また、「功なき者はしりぞけ、功ある者は進めて用いると云う決まり事(法度(はつと))がある(注)」。以上のようであるから、多くの国民は朝廷を慕い、国中の人々が朝廷をお手本にする。
士たる役人(武士)は、士農工商と云う階級の指導者として、天職を全うする役割を担う存在である。その仕事や生活において、上司や父母に忠実に仕え、自ら身を以て範を示し、多くの人から信頼される人物となり、人徳者として民を教え導く役割を果たすことが期待されている。
今の時に當(あた)り、士氣(しき)大いに衰(おとろ)へ、内(うち)に廉(れん)恥(ち)の心なく、外に匡救(きようきゆう)の功なし。上(うえ)天職を廢(はい)し、下(した)人事を誤る。蚩蚩(しし)として商(しよう)買(ばい)と利を争(あらそ)ひ、農を妨(さまた)げ工を傷(そこな)ひ、残(ざん)害(がい)以(もつ)て威(い)と稱(しよう)し、飽(ほう)食(しよく)暖(だん)衣(い)、安(あん)逸(いつ)以(もつ)て德と稱(しよう)し、日にその粟(あわ)を食ひ、日にその器(うつわ)を用ひ、これに報(むく)ゆる所以(ゆえん)を知らず。驕(きよう)奢(しや)俗(ぞく)を成(な)し、身(む)貧(まず)しく家(いえ)乏(とぼ)し。秩祿(ちつろく)贍(た)らずして、給(きゆう)を商(しよう)買(ばい)に仰(あお)ぎ、假(か)りて還(かへ)さず、争(そう)論(ろん)並(なら)び起る。賈(こ)豎(じゆ)の利に黠(さか)しき、少成故の如く、習慣自然の如し。先づ勝つべからざるを爲して、而して敵の勝つべきを待つ。唇を弾(だん)じ舌を鼓(こ)し、智(ち)巧(こう)百(ひやく)出(しゆつ)、烏(う)獲(かく)もこれが爲(ため)に怯(おそ)れ、莫(ばく)邪(や)もこれが爲(ため)に鈍(にぶ)る。況(いは)んや彼は固(もと)より是(これ)にして、而(しか)して此(これ)は固(もと)より非(ひ)なるをや。これに克(か)たんと欲すといへども、それ得べけんや。
ところが、今の時代においては、士たる役人(武士)の氣力は大きく衰え、恥を知る心を失い、悪を正し、危機を救おうとする行為は全く見られなくなった。上級役人は指導者として天職を全うしようとする氣力を失い、下級役人は決められた仕事に素直に従わない。世の中を嘲(あざけ)り笑って、自分の利益を貪(むさぼ)り、役人でありながら商売にうつつを抜かして、農民や職人を馬鹿にしている。横柄(おうへい)な態度で偉そうに振る舞い、満腹になるまで食べ続け、布団を巻いたように重ね着して温々(ぬくぬく)としている。毎日たらふく食べて散らかし放題。整理・整頓・清掃、何一つやろうとしない。
贅沢三昧(ぜいたくざんまい)をやり尽くし、やがて心身共に窮(きゆう)乏(ぼう)した役人の家は貧しくなる。終に支給される俸禄(ほうろく)では家計を賄(まかな)えなくなり、本業を疎(おろそ)かにして副業に手を出し、それでも足りないので商人から借金をするが返済は滞って訴えられる。役人でありながら卑(いや)しい商人のようにずる賢くなり、ちょっと利益が出ると、欲に目が眩(くら)んで堕落する。勝つ見込みが全くない商人と争って、むざむざと負けて自分を追い詰める。
今の商人は唇を大きく開けて、舌をべらべら回して、悪(わる)智(ぢ)恵(え)や悪(わる)企(だく)みを数え切れないくらい考えている。例えれば、周王朝の一国である秦(しん)の武王に仕えた烏(う)獲(かく)という武人ですら、怖れるほどの強敵なのが今の商人であり、莫(ばく)邪(や)と云う名の名剣ですら威力が鈍るほどに手(て)強(ごわ)い相手である。商売を知らない役人(武士)には到底勝ち目のない恐ろしい相手であり、戦いを挑むこと自体がどうかしている。このような商人を相手にして勝とうと思っていることが土台間違っている。