第七章
子曰。易其至矣乎。夫易。聖人所以崇德而廣業也。知崇禮卑。崇效天。卑法地。天地設位。而易行乎其中矣。成性存存。道義之門。
子曰く、易は其れ至れるかな。
〇夫れ易は、聖人の徳を崇(たか)くして業を広むる所以也。
知は崇く礼は卑(ひく)し。崇きは天に効(なら)い、卑きは地に法(のっと)る。
天地位を設けて、而して易、其の中に行なわる。
性を成し存すべきを存するは、道義の門なり。
孔先生がおっしゃった。「易経の内容は広大であり、これ以上の教えは他には見当たらないなぁ」と。
易経を聖人(大人・君子)が学ぶ理由は、天地の道(生成発展と生々化成)が人に発して「徳(道徳)」となり、その徳を修得した聖人(大人・君子)が人間社会を統治することにある。そして、聖人(大人・君子)により統治される社会では、「徳(道徳)」を体現する事業を広めることができる。そのために易経を学ぶのである。
易経を学ぶことによって知識は見識へ、見識は胆識へと益々崇高なものとなり、人間社会における「徳(道徳)」を体現するための入り口である「礼儀作法」は、卑近な人々でも取り入れられるようにハードルを低くする。
知識は見識へ、見識は胆識へと益々崇高なものとなる。これは崇高な天の道に近付こうとする聖人の努力の賜(たまもの)である。
「礼儀作法」を、卑近な人々でも取り入れられるようにハードルを低くするのは、地の道が泰然と低く構えて崇高な天を支えているのに倣(なら)っているのである。
崇高な天の道は高い処にあり、柔順な地の道は低い処にある。それぞれが在るべき処に在るのである。
「性」とは「心で生きる」ことである。「心で生きる」は萬物の霊長である人間だからこそ可能な生き方である。それゆえ、人間は「心で生きる」すなわち「天命を体現する」ために易経を学ぶのである。易経を学ぶことは「人の道」を体現する入り口(門)である。