是(ここ)に海の神の女(むすめ)、豐(とよ)玉(だま)毘(び)賣(め)の命(みこと)、自(みずか)ら參(ま)い出(い)でて、「妾(あ)は已(すで)に妊身(はら)みぬ。今(いま)産(う)む時に臨(のぞ)みて此(これ)を念(おも)ふに、天(あま)つ神の御子(みこ)を海原(うなはら)に生(う)むべくあらず。故(かれ)、參(ま)い出(い)で到(いた)れり」と白(まを)しき。爾(しか)くして、即(すなわ)ち其(そ)の海(うみ)邊(べ)の波(なぎ)限(さ)に鵜(う)の羽(は)を以(も)ちて葺草(かや)と爲(し)て、産殿(うぶや)を造(つく)りき。是(ここ)に其(そ)の産殿(うぶや)を未(いま)だ葺(ふ)き合(あ)へぬに、御腹(みはら)の急(には)かなるに忍(た)へず。故(かれ)、産殿(うぶや)に入(い)り坐(ま)しき。爾(しか)くして方(まさ)に産(う)まむとする時(とき)に其(そ)の日子(ひこ)に白(まを)して言(い)ひしく、「凡(おほよ)そ他(あた)し國(くに)の人は、産む時に臨(のぞ)みて、本(もと)つ國の形(かたち)を以(も)ちて産生(う)むなり。故(かれ)、妾(あが)今(いま)、本(もと)の身(み)を以(も)ちて産(う)まむと爲(す)。願(ねが)はくは、妾(あ)を見(み)ること勿(なか)れ」と言(まを)したまひき。是(ここ)に其(そ)の言(こと)を奇(あや)しと思(おも)ひて、竊(ひそ)かに其(そ)の方(まさ)に産(う)まむとするを伺(うかが)へば、八尋(やひろ)わにと化(な)りて、匍匐(はらば)ひ委蛇(もごよ)ひき。即(すなわ)ち見(み)驚(おどろ)き畏(かしこ)みて遁(に)げ退(そ)きき。爾(しか)くして豐(とよ)玉(だま)毘(び)賣(め)の命(みこと)、其(そ)の伺(うかが)い見(み)る事(こと)を知りて心(こころ)恥(はづか)しと以爲(おも)ひて、乃(すなわ)ち其(そ)の御子(みこ)を生(う)み置(お)きて、「妾(あ)は恆(つね)に海(うみ)つ道(ち)を通(とほ)りて往來(かよ)はむと欲(おも)ひき。然(しか)れども吾(あ)が形(かたち)を伺(うかが)い見(み)ること、是(こ)れ甚(いと)怍(はづか)し」と白(まを)したまひて、即(すなわ)ち海坂(うなさか)を塞(ふさ)ぎて、返(かへ)り入(い)りき。是(ここ)を以(も)ちて、其(そ)の産(う)める御子(みこ)を名(な)づけて、天津(あまつ)日(ひ)高(たか)日(ひ)子波限建(こなぎさたけ)鵜葺草葺不合(うかやふきあへず)の命(みこと)と謂(い)ふ。
然(しか)れども後(のち)は、其(そ)の伺(かきま)みたまひし情(こころ)を恨(うら)みたまへども、戀(こひ)しき心に忍(しの)びずて、其(そ)の御子(みこ)を治養(ひた)しまつる縁(よし)に因(よ)りて、其(そ)の弟(おと)の玉依毘賣(たまよりびめ)に附(つ)けて歌(うた)を獻(たてまつ)りたまひき。其(そ)の歌(うた)に曰(い)ひしく
赤(あか)玉(だま)は 緒(を)さえ光れど 白玉(しらたま)の
君(きみ)が装(よそ)ひし 貴(たっと)くありけり
といひき。ここにその夫(ひこぢ)答(こた)へて、歌ひたまひしく、
沖(おき)つ鳥(とり) 鴨著(ど)く島(しま)に 我(あ)が率寝(いね)し
妹(いも)は忘れじ 世(よ)の悉(ことごと)に
とうたひまたひき。故(かれ)、日子穗穗手見(ひこほほでみ)の命(みこと)は高千穗(たかちほ)の宮(みや)に五百八十歳(いはちまりやそとせ)坐(いま)しき。御(み)陵(はか)はすなわちその高千穗の山の西にあり。
是(こ)の天津(あまつ)日(ひ)高日子(たかひこ)波限建(なぎさたけ)鵜葺草葺不合(うかやふきあへず)の命(みこと)、其(そ)の姨(をば)の玉依毘賣(たまよりびめ)の命(みこと)を娶(めと)りて生(う)みし御子(みこ)の名(な)は、五瀬(いつせ)の命(みこと)。次に稻氷(いなひ)の命(みこと)。次に御毛沼(みけぬ)の命(みこと)。次に若御毛(わかみけ)沼(ぬ)の命(みこと)、またの名は豐(とよ)御毛(みけ)沼(ぬ)の命(みこと)、またの名は神(かむ)倭(やまと)伊波禮毘古(いはれびこ)の命【四つ柱】。故(かれ)、御毛沼(みけぬ)の命(みこと)は浪(なみ)の穗(ほ)を跳(ふ)みて常世(とこよ)の國に渡(わた)り坐(ま)し、稻(いな)氷(ひ)の命(みこと)は妣(はは)の國と爲(し)て海原(うなはら)に入(い)り坐(ま)しき。