日本においては紀元前六百六十年(日本書紀)に初代天皇として神武天皇が即位して以来、第百二十六代目となる令和の今上陛下に至るまで王朝交代は一度もなく、連綿と皇室が続いている。それゆえ、日本には澤火革そのものの歴史はないのである。あえて云えば乙巳(いつし)の変(それに続く大化の改新)や江戸末期(それに続く明治維新)を澤火革に例えることはできる。乙巳(いつし)の変(それに続く大化の改新)について、「中学歴史 平成三十年度文部科学省検定不合格教科書 令和書籍」には、次のように書いてある。
「聖徳太子亡き後は、蘇我氏が権力の絶頂期を迎えました。そこで、政治が腐敗した状況を打破しようと立ち上がったのが中(なかの)大(おお)兄(えの)皇(おう)子(じ)と中(なか)臣(とみの)鎌(かま)足(たり)でした。二人は六四五年、飛(あす)鳥(かの)板(いた)蓋(ぶきの)宮(みや)の大(だい)極(ごく)殿(でん)で、第三十五代皇(こう)極(ぎよく)天皇の前で蘇(そ)我(がの)入(いる)鹿(か)の頭と肩に斬りかかり殺害しました。乙巳(いつし)の変です。翌日には入鹿の父親である蘇(そ)我(がの)蝦(えみ)夷(し)も自害に追い込まれ、これにより蘇我氏が失脚しました。これを受けて皇(こう)極(ぎよく)天皇は歴史上はじめてとなる譲位を実行し、軽(かるの)皇(み)子(こ)が即位して第三十六代孝徳天皇となりました。
この年、朝廷は日本で最初の元号である『大化』を定め、大化元年としました。かつて中国王朝の皇帝は民に正しい暦(こよみ)を与えるものとされていました。元号の制定は皇帝の責務だったのです。日本が独自の元号を定めたということも、中国の冊(さく)封(ほう)から独立した日本の意思でした。現在元号を使用している国は、世界で日本だけです。」
同書では明治維新について次のように書いてある。
「慶応三年(一八六七)、幕府の大政奉還を受けて、朝廷は王政復古の大号令を発し、明治天皇を中心とした新たを政府を組織することを宣言しました。(中略)
これに不満を持った幕府軍と新政府軍が京都で衝突し、鳥羽(とば)・伏(ふし)見(み)の戦いが起き、各地で先端が開かれ、内戦状態になりました。しかし、慶喜には天皇に背く意思はなく、錦の御旗(天皇を象徴する旗)を見ると、戦闘を放棄しました。(中略)
幕府の本拠地である江戸城については、勝海舟と西郷隆盛の話し合いにより江戸城無血開城が実現し、江戸市中での戦闘は回避され、多くの人命が救われました。他方で、会津戦争などでは壮絶な戦いとなり、特に会津藩などの旧幕府政府を構成する奥(おう)羽(う)越(えつ)列(れつ)藩(ぱん)同(どう)盟(めい)には多くの死者が出ました。(中略)
この一連の内戦を、戊(ぼ)辰(しん)戦争といいます。こうして、幕末の混乱は幕を閉じ、我が国の新しい時代が始まります。
国を二分する内戦を制して、明治天皇を中心とした新政府が発足し、明治維新とよばれる変革が行われていきます。」
以上である。以下省略。