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六十四卦の概要 澤火革

四十九 澤火革 ☱ ☲

 澤火革☱☲は革命の物語である。易経発祥の地である古代中国は殷から周へ、周から秦へ、秦から漢へと、革命に次ぐ革命で、次々と王朝が変わっていった。易経に最初に言葉を掛けた文王は殷王朝の天子である紂王に柔順に従い、諸侯としての分を守り続けた。革命は時に中ることが大事である。民衆は革命を好まない。今の政治体制が崩壊寸前となり、弊害が露わにならない段階で、実行してはならないのである。よって、革命によって殷王朝を撃ち倒し周王朝を打ち立てたのは文王の息子である武王である。武王が文王の後を継いで、殷王朝の体制が崩壊寸前となり、弊害が露わになった段階で革命を成し遂げたのである。経文(爻辞の流れ)に当て嵌めると、下卦の初爻から三爻までが文王の時代であり、上卦の四爻から上爻までが武王の時代である。
 日本においては紀元前六六十年(日本書紀)に初代天皇として神武天皇が即位して以来、第百二六代目となる令和の今上陛下に至るまで王朝交代は一度もなく、連綿と皇室が続いている。それゆえ、日本には澤火革そのものの歴史はないのである。あえて云えば乙巳(いつし)の変(それに続く大化の改新)や江戸末期(それに続く明治維新)を澤火革に例えることはできる。乙巳(いつし)の変(それに続く大化の改新)について、「中学歴史 平成三十年度文部科学省検定不合格教科書 令和書籍」には、次のように書いてある。
「聖徳太子亡き後は、蘇我氏が権力の絶頂期を迎えました。そこで、政治が腐敗した状況を打破しようと立ち上がったのが中(なかの)大(おお)兄(えの)皇(おう)子(じ)と中(なか)臣(とみの)鎌(かま)足(たり)でした。二人は六四五年、飛(あす)鳥(かの)板(いた)蓋(ぶきの)宮(みや)の大(だい)極(ごく)殿(でん)で、第三十五代皇(こう)極(ぎよく)天皇の前で蘇(そ)我(がの)入(いる)鹿(か)の頭と肩に斬りかかり殺害しました。乙巳(いつし)の変です。翌日には入鹿の父親である蘇(そ)我(がの)蝦(えみ)夷(し)も自害に追い込まれ、これにより蘇我氏が失脚しました。これを受けて皇(こう)極(ぎよく)天皇は歴史上はじめてとなる譲位を実行し、軽(かるの)皇(み)子(こ)が即位して第三十六代孝徳天皇となりました。
 この年、朝廷は日本で最初の元号である『大化』を定め、大化元年としました。かつて中国王朝の皇帝は民に正しい暦(こよみ)を与えるものとされていました。元号の制定は皇帝の責務だったのです。日本が独自の元号を定めたということも、中国の冊(さく)封(ほう)から独立した日本の意思でした。現在元号を使用している国は、世界で日本だけです。」

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