雍(よう)也(や)篇第六
雍也第六、第一章
子曰、雍也可使南面。仲弓問子桑伯子。子曰、可也簡。仲弓曰、居敬而行簡、以臨其民。不亦可乎。居簡而行簡、無乃大簡乎。子曰、雍之言然。
子曰く、「雍(よう)や南(なん)面(めん)せしむべし」。
仲(ちゆう)弓(きゆう)、子(し)桑(そう)伯(はく)子(し)を問う。
子曰く、「可なり簡なり」。仲弓曰く、「敬に居て簡を行い、以て其の民に臨む。亦た可ならずや。簡に居て簡を行わば、乃(すなわ)ち大簡なるなからんか」。
子曰く、「雍の言(げん)然(しか)り」。
孔先生が (弟子の仲弓を評して)次のように言われた。
「雍(=仲弓)は、南向きに座らせてもよいほどの人物である」。
仲弓が(当時、寛大と評された)子桑伯子という政治家〔魯の人らしい、詳細は不明〕について質問した。
孔先生が答えた。
「まあよかろう。彼は大まかで小事にこだわらない」。
仲弓が質問した。
「君主が慎みの心で自らを律して、大まかで小事にこだわらない寛大な態度で人民に臨むのならば、国は治まるでしょう。しかし、自らを律するのに大まかであれば、国は乱れるのではないでしょうか」。
孔先生はおっしゃった。
「お前の言うとおりである」。20111123
この章に出てくる重要な言葉(概念)
南面:天子や諸侯などが公式の場で南に向き、北に向かった臣下の禮をうけること。南面せしむべしとは、人の頭に立つことのできる人物だという意味
簡:煩雑でない、大まかで小事にこだわらない
大簡:大まかに過ぎること
佐久協著「高校生が感動した『論語』」では、「子曰く、雍や南面せしむべし」は別の章としており、「仲弓、子桑伯子を問う」を次のように訳している。
弟子の仲弓が政治家の子桑伯子の人柄を訊いたので、「おおようで、いいんじゃないの」と誉めたんだよ。そうしたら仲弓のやつ、「自分に対して厳しくて、人民に対しておおようなのは結構ですが、自分に対しておおようで、他人に対してもおおようではグズグズになりはしませんか」と反論してね。ごもっともなので、「いやあ、お前の言う通りだよ」と返事をしたが、誉め言葉も難しいね。
雍也第六、第二章
哀公問、弟子孰爲好學。孔子対曰、有顔回者。好學。不遷怒。不弐過。不幸短命死矣。今也則亡。未聞好學者也。
哀公問う、「弟子孰(たれ)か學を好むとなす」。孔子対えて曰く、「顔回という者有り。學を好む。怒りを遷(うつ)さず。過ちを弐(ふた)たびせず。不幸短命にして死す。今や則ち亡し。未だ學を好む者を聞かず」。
(孔子晩年のこと。魯国の君主で、孔子が嘗て仕えた定公を継いだ)哀公が(孔子に)尋ねた。
「あなたの弟子の中で、學ぶことを心から好んで、修養を積んだのは誰ですか」。
孔子が、その質問に答えて言われた。
「顔回という名の弟子がおりました。學ぶことを心から好んで修養を積みました。(わたしの教えを継いだ人物です。何が起ころうとも泰然としており、けっして)八つ当たりするようなことがなく、過ちは二度と繰り返しませんでした。(わたしにとっても、後世の人々にとっても、大変に)不幸なことに、若くして死んでしまい、今はすでにこの世におりません…。未だ、顔回のように學ぶことを心から好んで修養を積み上げる弟子とは出会っておりません」。20111124
この章に出てくる重要な言葉(概念)
怒りを遷(うつ)す:怒って周りに当たり散らすこと
☆安岡正篤先生は、「論語に學ぶ」の中で次のように書いている。
怒を移さず、過を繰返さない。なかなか出来ないことですね。大抵は怒を遷す、過を繰返す。躓(つまず)いた石にまで当たって「この野郎っ!」などと言って蹴飛ばす。そうかと思うと、自分の不注意は棚に上げて、「誰がこんなものをあんなところに置いたのか」などと家の者に当たる。
又こういうのが過を繰返す。そうしてとんだ結果を生む。「ああ、自分が不注意であった」と反省する人は案外少ないものです。小事にその人間がよく現われると言いますが、その通りで、何でもない些細なことにその人の性格がよく出るものであります。
その点顔回は偉かった。そうして回の外に「未だ學を好む者を聞かざるなり」と言うのですから、孔子が如何に顔回に許しておったかということがよくわかる。
☆呉智英著「現代人の論語」には、次のように書いてある。
他人に八つ当たりしない(怒りを遷さず)というところに、顔回の美質がよく現れている。子路も子貢も、勇の人、知の人とタイプこそちがっていても、自分の思うようにならないことがあれば八つ当たりしかねない人物であった。いや、孔子自身がそうだったように思える。論語冒頭の學而篇第一章に出てきて以後頻出する「人知らずして慍(うら)みず(人に評価されなくても恨みごとを言わない)」は、逆に、人知らざれば慍(うら)みかねない孔子自身や子路・子貢たちの証明である。だが、独り顔回だけは、「怒りを遷さず」であった。
里仁篇にこんな言葉がある。
「仁者は仁に安んじ、知者は仁を利とす」(里仁篇四の二)
仁者は、仁の中に安らいでいる。知者は仁によって世を利そうとする。
仁者は、ここでは、仁に自足している。それはまた、一椀の食物、一椀の飲物、路地裏暮らしを改めようとしない顔回である。顔回は仁を体現し、仁を楽しんでいる。そうであればこそ、一を聞いてその先にある二を知る子貢が、自分は顔回に及びもつかないと負けを認めたのだ。一を聞き二を知り、二を知って三を覚ったところで何になろう。顔回は、一を聞いただけで十全の仁を楽しんでいるのだから。
孔子もそれを認めていた。孔子の言う學問が仁に至る道を意味している以上、ほとんど仁を体現したかのような顔回は、知の人子貢よりも「學を好む」者であった。仁を求めながら、いや、仁を求めていればこそ、「仁に安んず」る境地には至り得ない孔子には、顔回は妬(ねた)ましくさえあったかもしれない。
だが、その顔回は思想家たり得ず、論語中の印象も強くはない。弟子の顔回に及ばないと自ら認めた孔子は、人類最初の思想家として仁の思想を構築し、後世にまで信奉者を持った。
「仁に安んず」る境地には至り得ない孔子には、顔回は妬ましくさえあったかもしれない、とはやや言い過ぎのような気もするが、孔子にとって顔回は「羨ましい」存在であったことは間違いない。やはり、顔回は儒者というよりも、禅僧に近い。