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山縣大弐著 柳子新論 川浦玄智訳注 現代語訳 その十四

文武第五
【文武は並び行われなくてはならないのに、政権が武門に移ってからは武だけが尚ばれ、文教はないがしろにされてしまった。しかも時代を経るに従い、その武も名だけで実がなくなった。一方文教をおろそかにした結果は、国の上下をあげて道義心は全く失われてしまったことを論じた。(注)】

柳(りゆう)子(し)いはく、政(まつりごと)の関東に移るや、鄙(ひ)人(じん)その威(い)を奮(ふる)ひ、陪審(ばいしん)その權(けん)を専(もつぱ)らにす。爾(じ)来(らい)五百有(ゆう)餘(よ)年(ねん)なり。人はただ武を尚(たつと)ぶを知りて、文を尚(たつと)ぶを知らず。文を尚(たつと)ばざるの弊(へい)は、禮樂(れいがく)並び壊(こわ)れ、士はその鄙(ひ)俗(ぞく)に勝(た)へず。武を尚(たつと)ぶの弊(へい)は、刑罰孤(ひと)り行(おこな)はれて、民(たみ)はその苛(か)刻(こく)に勝(た)へず。俗(ぞく)吏(り)乃(すなわ)ちいふ、文を用ふるの迂(う)なる、武に任ずるの急なるに如(し)かず。禮を為すの難(かた)き、刑をなすの易(やす)きに如(し)かず。古(いにしえ)何ぞ以(もつ)て稽(かんが)ふるに足らん、道何ぞ以て學ぶに足らんやと。これただに蠻(ばん)夷(い)の言(げん)のみ。殊(こと)に知らず、文(ぶん)事(じ)ある者は、必ず武(ぶの)備(そなえ)あり、禮樂(れいがく)の教(おしえ)は、强(きよう)禦(ぎよ)も當(あた)ることなきは、古(いにしえ)の簡(かん)に率(したが)ひ、而(しか)も道の易(やす)きに由(よ)ればなることを。且(か)つそれ文武は、譬(たと)へば猶(な)ほ權(けん)衡(しよう)の如(ごと)し。一昴一低(いつこういつてい)、治(ち)亂(らん)乃(すなわ)ち知られ、一(いつ)重(ちよう)一(いつ)輕(けい)盛(せい)衰(すい)乃(すなわ)ち見(あら)はる。なんぞ以(もつ)て偏(へん)廢(ぱい)すべけんや。

 大(だい)貳(に)先生(柳(りゅう)子(し))はおっしゃった。政治の実権が東国の武士(源頼朝)の手に渡って以来、源氏が衰えると臣下の北條氏が権力を握り、将軍を意のままに立てるようになった。政治は武力で行われるようになり、足利氏による室町時代になると、征(せい)夷(い)大(たい)将(しょう)軍(ぐん)の実権は、天皇を上回るようになった。田舎武士が権威を笠に着て、権力を恣(ほしいまま)にするようになってから、五百有余年(江戸時代までを通算すると六百数十年)が経過した。
 武家は武道や剣術は尊(たっと)ぶが、文化や文芸は尊(たっと)ばない。教育を疎(おろそ)かにして刑罰を厳しく執行する。そのような圧政は庶民にとっては過酷なだけで到底耐えられない。木(こ)っ(っ)端(ぱ)役人は「教育を普及するのは時間がかかるが、刑罰を厳しく執行しないと世の中が乱れる」と嘯(うそぶ)いている。このようなやり方では、礼節ある社会を築くことなど到底できやしない。安易に刑罰を執行して、庶民を苦しめているだけである。
 また、古の学問(古典)を学ぼうともしない。まるで野(や)蛮(ばん)人(じん)である。文化や文学を尊ぶ人々は「同時に武道や剣術も尊ぶ」ことを知らないのである。また、礼楽をきちんと教えれば「荒くれ者や暴虐な人々も自然に服従する(注)」ことも知らないのである。そして、時代の篩(ふるい)にかけられた古の教えをきちんと学べば「時空を超えた普遍性を知ることにより、誰もが道徳的な振る舞いをするようになる」ことを知らないのである。文武両立すれば、万事調和する。世の中の風通しがよくなり、庶民の暮らし向きや不平不満を知ることができる。それなのに、どうして武道・武術だけに重点を置くのだろうか。

 この故(ゆえ)に文武の天下に於(お)けるや、一(いつ)張(ちよう)一(いつ)弛(し)、剛柔迭(たがひ)に擧(あ)げ、一(いち)動(どう)一(いち)静(せい)、強弱並び行はれ、しかる後(のち)能(よ)く四(し)海(かい)を平均し、民その樂(らく)を樂(たの)しみて、その利を利とし、人(ひと)今(いま)に到(いた)るまで、德を稱(しよう)せざることなきなり。詩にいふ、済(せい)済(せい)たる多(た)士(し)、文(ぶん)王(おう)以(もつ)て寧(やす)しと。文王(ぶんおう)の文王たる所以(ゆえん)なり。糾(きゅう)糾(きゅう)たる武夫(もののふ)は、公(こう)侯(こう)の干(かん)城(じょう)と。武(ぶ)王(おう)の武たる所以(ゆえん)なり。もしそれ武(ぶ)王(おう)の武ありて、文王(ぶんおう)の文なくんば、則(すなわ)ち何を以(もつ)てかの郁(いく)郁(いく)乎(こ)たるを見んや。文王の文ありて、武王の武なくんば、また何を以(もつ)てかの赫(かく)赫(かく)乎(こ)たるを見んや。文武の以(もつ)て偏廢(へんぱい)すべからざる、豈(あ)に昭昭(しようしよう)たらずや。卽(すなわ)ち今の人、生れて一徑(いつけい)をも執(と)らざる者は、寐(い)ねて思ひ寤(さ)めて思ふも、いづくんぞその然(しか)るを知らんや。知らずしてこれをいふは、妄(もう)に非(あら)ざれば則(すなわ)ち狂(きよう)、固(もと)より歯牙(しが)に掛(か)くるに足(た)らざるなり。然(しか)りといへども天下の民(たみ)、懵懵(ぼうぼう)としてその鄙(ひな)に勝(た)へず、恟恟(きようきよう)としてその刻(こく)に勝(た)へざる者、吾(われ)なんぞ坐してこれを視(み)るに忍びんや。

 文武両立すれば、緩急ほどよく調和し、剛柔助け合い、動静・強弱並び行われて、日本各地における地域格差も解消される。庶民は生活を楽しむようになり、人徳者が尊崇される世の中になる。詩経に「済(せい)済(せい)たる多(た)士(し)、文(ぶん)王(おう)以(もつ)て寧(やす)し。/立派な人がおおくそろっているために、周の文(ぶん)王(おう)も安らかに国を治めることができた。(諸(もろ)橋(はし)轍(てつ)次(じ)著「中国古典名言辞典」講談社学術文庫)」とある。文王の文王たる所以である。また、詩経には「糾(きゅう)糾(きゅう)たる武夫(もののふ)は、公(こう)侯(こう)の干(かん)城(じょう)/勇敢な武人は諸侯となって城を内外から守る」ともある。武王の武王たる所以である。
 もし、武王の武だけで、文王の文がなかったら、周王朝の政治と文化は「郁(いく)郁(いく)乎(こ)」として盛んにならなかったであろう。また、文王の文だけで、武王の武がなかったら、周王朝の政治と文化は「赫(かく)赫(かく)乎(こ)」として盛んにならなかったであろう。(孔子は論語・八佾篇で「周は二代〔夏と殷〕にかんがみて郁(いく)郁(いく)乎(こ)〔文物のさかんなさま〕として文なるかな。吾は周に従わん」といった。注)文武両立することが肝要であることは、以上の周王朝の事例を見れば明らである。
 文化や文芸を尊(たっと)ばない今の時代にあって、古の教えを学ばない為政者は、物事の原理原則を知らない。為政者が原理原則を知らないのだから庶民も知らない。原理原則を知らない人は妄想(もうそう)を抱いて、妄(もう)言(げん)を発する。このような社会では庶民が生活を楽しむことはできないし、人徳者が尊敬されるはずもない。全くお話にならないのである。残念なことに、庶民のほとんどが無学な田舎者として、恐(おそ)れ戦(おのの)きながら、生活を楽しむこともできずに一生を終えることになる。わたしは、このような状況を、坐して見ているに忍びない。

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